古代史探訪

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2018年 10月 08日 ( 1 )

下照姫(したてるひめ)

 下照姫は高姫(たかひめ)、稚国玉(わかくにたま)とも云う。
 父は大国主命(160年頃-220年頃、出雲・宗像)、母は田心姫(たごりひめ、宇佐・宗像)、兄は味耜高彦根命(あじすきたかひこね、迦毛大御神)。

 日本書紀によると、大国主命に国譲りを迫るために、高皇産霊尊が天津国玉神の子・天稚彦(あめのわかひこ)を遣わしたが、天稚彦は大国主命の娘の下照姫を妻として帰って来なかった。

 天稚彦は味耜高彦根命とも仲が良く、二人は風貌が似ていたが、やがて天稚彦は高天原により殺されてしまう。
 天稚彦の喪中に下照姫が詠んだ歌がある。最初の和歌と云われるが、素戔嗚の「八雲立つ」歌の方が古い。
 あめ(天)なるや おとたなばた(弟織女)の うながせる たまのみすまる(御統)の 
 あなたま(穴玉)はや みたにふたわたらす あぢすきたかひこね

   高天原にいる弟織女(おとたなばた)が頸にかけている玉の御統(みすまる)、
   穴玉は美しいが、谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神と同じだ。
 弟織女は卑弥呼(179年-247年)のことかもしれない。私見ですが、下照姫は卑弥呼と従妹(いとこ)で、同じ時代を生きた。
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 高皇産霊尊は次に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を遣わして大国主命に国譲りを迫る。事代主命が国譲りを認めたこともあり、大国主命は承諾した。
 国譲りは西暦201年頃に成立したと私は考えています。但し、国譲りの地域は出雲国ではなく、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)であった。
 出雲国(島根県)は大国主命の本拠地であり、出雲国を譲ることはなかった。

 海人族の宗像(むなかた)氏は、大国主命の筑紫の本拠地である宗像大社(宗像三女神)を祀る。宗像氏は大国主命の後裔で、宗像国(宗像市)と刺国(福津市)を中心として玄界灘と響灘を支配する豪族であった。大陸との交易で財を成した。
 宗像徳善(胸形君徳善)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)は40代天武天皇(686年崩御)の妃となり、高市皇子(654年-696年)を生む。徳善は684年に宗像朝臣を賜い、高市皇子は690年に太政大臣にまで出世する。
 平安時代には宗像氏は平家と関係が深かったが、その後は源氏と密接に繋がり、10世紀になると宗像氏が太宰府の高官に任命されるようになる。更に宗像氏は武士としても発展していく。

 出雲国風土記に、大穴持命(大国主命)の子として記されている「阿陀加夜努志多伎吉比売命、あだかやぬしたききひめ」が下照姫ではないかと云うが、違うと云う説もある。

 鳥取県東伯郡(とうはくぐん)湯梨浜町(ゆりはまちょう)宮内に鎮座の倭文神社(しとりじんじゃ、伯耆国一宮)の由緒によると、
 「下照姫は大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励んだ。しかし、高天原から天稚彦が遣わされ国譲りを要求したが、天稚彦は下照姫と結婚して帰らなかった。そこで高天原から遣わされたキジを天稚彦が射殺したことが原因で天稚彦は殺されてしまう。
 下照姫は海路で伯耆国宇野にやってきて、当地に住み着き、安産の指導、農業開発、医療普及などに努めた」とある。「倭文神社のHP」
   
 福岡県久留米市大善寺町宮本に鎮座の大善寺玉垂宮(だいぜんじたまだれぐう)の祭神は玉垂命、八幡大神、住吉大神になっている。「大善寺玉垂宮のHP」  
 水沼(みぬま)氏が始祖を玉垂神として祀った。玉垂神の末裔が当社宮司の隈氏で、現宮司の隈正實氏のご先祖は、ミマキイリヒコイニエ(後の10代崇神天皇、251年-301年)に仕え、その後に大善寺玉垂宮の宮司になった。当社は1,800年以上も続いている古社。
 それであれば、西暦270年頃に臺與(235年頃-295年頃)と共に大和国へ東遷したミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)に隈氏も随行し、やがて故郷に戻り玉垂宮の宮司になったと云うことでしょうか。崇神天皇は東遷する前は、伊都国と紀伊国の王だったと私は見ています。

 大善寺玉垂宮の当初の祭神は、下照姫が玉垂姫神として祀られたと云う。玉垂姫神の墳墓は2km南西の久留米市三潴町(みづままち)高三潴139に鎮座の月読神社にある高良御廟塚古墳(20mの円墳)と云う説があるが・・・
 大善寺玉垂宮は三潴(みずま)の総社で、9km北東に鎮座の筑後国一宮・高良大社(こうらたいしゃ、高良玉垂宮)の元宮と云う。 「高良大社」のHP
     
 大善寺玉垂宮は広川沿いに鎮座しており、広川は八女山地から流れ出て上流には岩戸山古墳がある。広川は当社の前を過ぎて筑後川に注ぐ。
 当社の近くには御塚古墳(おんつかこふん、5世紀築造、国指定史跡)と権現塚古墳(ごんげんづかこふん、6世紀築造)があり、水沼氏の墳墓と見られる。



 海人族は高三潴、高尾張、高鴨、高天原などと本拠地に「高」を付ける。
 天津国玉神と天稚彦の本拠地は耳納山地から高三潴(たかみずま)一帯だった可能性が高い。玉垂命については諸説あるが、本来は天津国玉神ではないか。
 大善寺玉垂宮も高良玉垂宮も水沼氏が祀っていたと考えられるが、天稚彦が大国主命に加勢した為に、高皇産霊尊に耳納山地と高良玉垂宮を取り上げられてしまった。
 しかし、天津国玉神が玉垂宮を一夜だけ貸してほしいと高皇産霊尊に頼み込んで、そのまま居座ってしまったと考えられる。
 神社の祭神と斎主(いわいぬし)は時代と共に変遷していくことになる。

 三潴は筑後川の南部にあり、耳納山地(みのうさんち)を東に仰ぐ地域で、筑後川を北に渡れば高天原も近い。水路で奴国(博多)にも近いし、有明海から出ると大陸にも行ける。
 耳納(みのう)の地名は岐阜県の美濃(みの)と似ているので、美濃と間違えた伝承があるのではないか。日本書紀に「天稚彦の殯(もがり)で味耜高彦根が喪屋を切り倒した。その小屋が下界に落ちて山となった。これが美濃国の喪山である」とある。美濃は耳納の間違いと考えられる。
 耳納国は魏志倭人伝記載の「彌奴国(みなこく)」かもしれない。

 天稚彦が亡くなった後、国譲りも成立し、下照姫が伯耆国に去って行ったが、水沼氏は宗像三女神も祀ることになる。
 私見ですが、水沼氏の祖神は玉垂命(天津国玉神)で、子神の天稚彦が田心姫(宗像三女神)の娘・下照姫を妻としたので宗像三女神も祀るようになったと考えています。天津国玉神は筑後川南部周辺を治めていた海人族であったと見ています。

 大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼(みぬま)を 都と成しつ
   万葉集4261  作者不明  壬申の乱が治まった後の歌
 この歌の水沼(みぬま)は久留米市の水沼ではなく、奈良の明日香(飛鳥)のことだと思います。壬申の乱(672年)の後、40代天武天皇は飛鳥を都にしたので、この歌が詠まれた。
 「飛ぶ鳥の明日香」と云うように、飛鳥の地は「水鳥が飛び交う湿地帯」であったので、歌では「水沼」と詠んだのでしょう。
 古代の大和は中央に大和湖があり、その南部の湿地帯に飛鳥が位置している。飛鳥川や曽我川が大和湖に注いでいた。

 水沼君とよく似た名前に「水沼別(みぬまのわけ)」があるが、水沼君とは別系統の氏族。水沼別の始祖は12代景行天皇の皇子で国乳別皇子(くにちわけのおうじ)と云うが、はっきりしない。氏神は弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)となっている。

 先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
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by enki-eden | 2018-10-08 12:04