古代史探訪

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伊奢沙別命(いざさわけのみこと)

 別名 氣比大神・笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神(みけつおおかみ)。
 「ケ」は食物、「ヒ」は霊を意味する。

 伊奢沙別命は越前国一宮の氣比神宮(北陸道総鎮守、福井県敦賀市曙町11-68)の主神。

 越前国二宮の剣神社(福井県丹生郡越前町織田113-1)の主神は素戔嗚大神であるが、氣比大神を配神として祀っている。剣神社の地名は織田とあるように織田信長の祖先発祥の地で、信長も氏神として崇敬していた。
  赤のアイコンが氣比神宮、黄が剣神社


 伊奢沙別命の神格は海の神(海人族系)・食物神で、ご神徳は衣食住・海上安全・農漁業。
 古代の越前国敦賀郡は御食国(みけつくに)で、皇室に海産物の贄(にえ)を貢納していた。
 敦賀(つるが)の古名は角鹿(つぬが)であったが、大宝律令により敦賀と改称された。

 敦賀の立地は嶺南と呼ばれ、福井県南部の若狭湾沿岸地域になっている。文化的・経済的には北方の嶺北よりも西方の若狭湾沿岸との関係が深く、すぐ南方には琵琶湖があり近江国や京都との関係も深い。言葉も嶺北は福井弁(北陸弁)であり、嶺南の敦賀は北陸弁の要素もあるが近畿弁に近い。

 琵琶湖周辺を拠点とする息長氏にとって、琵琶湖北端から20kmほどの敦賀湾は日本海交易や海外交易に必要な津(港)であった。大和や摂津、河内にも拠点を持つ息長氏は瀬戸内海航路を利用する場合は住吉津(すみのえのつ、大阪市住吉区)の津守氏と連携した。
 津守氏は天火明命系の海人族で、住吉大社の歴代宮司を勤めている。住吉大社については、2013年12月5日投稿の「住吉大社①」をご参照ください。

 氣比大神は天日槍(あめのひぼこ)と同神説がある。天日槍の子孫である神功皇后は氣比神宮が鎮座する敦賀と関係が深い。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 日本書紀によると神功皇后摂政13年、誉田別尊(15代応神天皇)が立太子の時、武内宿禰と越国(北陸)に行き、敦賀の氣比大神(伊奢沙別命)と名前を交換したとある。西暦375年のことである。
 これは、立太子や成人の時に、その地に因んで名前を変える習慣のことか。例えば、平安時代に石清水八幡宮で元服した八幡太郎義家、賀茂神社で元服した賀茂次郎義綱、新羅明神で元服した新羅三郎義光のように。
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 氣比大神が天日槍であるならば、神功皇后の先祖の名前を応神天皇が交換して継ぐことにより、天日槍(氣比大神)の家督を引き継いだのかもしれない。
 日本書紀垂仁天皇3年紀に、天日槍の神宝に「胆狭浅(いささ)の太刀」が記されている。

 加古川市の日岡神社の主祭神は天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)である。神社の由緒によると、10代崇神天皇が「四道将軍」を派遣したが、西海将軍には7代孝霊天皇の皇子である彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命、桃太郎のモデル)と弟の若武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を派遣した。この彦五十狭芹彦命が日岡神社の祭神の天伊佐佐比古命であると云う。
 日岡神社については、2013年3月3日投稿の「日岡神社」をご参照ください。

 天伊佐佐比古命(吉備津彦命)と伊奢沙別命は同一神と云う説があり、吉備と氣比の発音が似ているとも云う。
 先代旧事本紀の国造本紀のよると、「成務朝の御代に吉備の臣・若武彦命の孫の建功狭日命(たけいさひのみこと)を角鹿国造に定められた」とある。
 古事記の7代孝霊天皇の記事に、「孝霊天皇の皇子・日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)は高志(越)の利波臣(となみのおみ)、豊国の国前臣(くにさきのおみ)、五百原君(いおはらのきみ)、角鹿済直(つぬかのわたりのあたい)祖先」とある。
 7代孝霊天皇の皇子は吉備国と角鹿国に深く関わっている。
 伊奢沙別命は天日槍であり、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)であり、角鹿氏(角鹿直)はその子孫の海人族で角鹿国造と云われる。
 角鹿国造初代の建功狭日命から64代目の子孫が福井県丹生郡越前町氣比庄の氣比神社禰宜・角鹿尚文(つのがたかふみ)氏である。
 
 兵庫県豊岡市気比286に氣比神社が鎮座。祭神は五十茶狭沙別命(いささわきのみこと)、神功皇后、仲哀天皇で、神社の西に気比川が流れている。
 神功皇后が敦賀から穴門(山口県)へ航海する途中に立ち寄ったとみられる。
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by enki-eden | 2017-10-27 00:13

天一神社(てんいちじんじゃ、神戸市西区押部谷町)

兵庫県神戸市西区押部谷町押部496   車は境内に停められます。
押部(おしべ)の氏神で「押部の天一さん」と呼ばれる。

祭神  事八十神(ことやそがみ、ことやそのかみ)、
    国常立命(くにのとこたちのみこと)、須勢利姫命(すせりひめ)、
    倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと)、
    天神(あまつかみ)、孤津姫命(つまつひめのみこと)、
    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)。



 祭神は素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)の子が多い。国常立命(西暦元年生)は奴国の初代国王で、素戔嗚命はその子孫だと云う説もあるが根拠はなく、別系統だと考えられる。
 私見ですが、国常立命は江南人(呉人、越人、楚人)の呉系海人族、素戔嗚命は楚系製鉄族だと考えています。

 事八十神は先代旧事本紀によると、素戔嗚尊の子で大己貴神(西暦160年頃出生)の兄。兄弟は稲羽の八上姫(やがみひめ)に求婚して争ったが、大己貴神が勝った。
 八上姫は御井神(みいのかみ)を生んだが、大己貴神が素戔嗚の娘・須勢利姫を正妻にしたので、八上姫は恐れて御井神を木の俣に挟んで稲羽に帰ってしまった。それで御井神は木俣神(きのまたのかみ)とも云われる。

 「押部(おしべ)」の地名は当地支配者の忍海部(おしんべ)氏に由来するが、忍海部氏が102代後花園天皇の代(1449年11月13日)に当社を創建したと云う。

   拝殿
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 拝殿手前の手水鉢のふちに盃状穴(はいじょうけつ)が彫られている。 ヨーロッパではカップマークと呼ばれ、古代の原始信仰のなごり。
 日本では縄文時代から存在し、磐座に彫られ、子孫繁栄、病気平癒や魂の蘇生を願うとされる。
 寺社の灯篭、手水石、柱の礎石などに彫られることもある。
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  近くの稲荷神社を18世紀終わり頃に拝殿右に遷した。
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 拝殿左に天満宮と大歳神社。近くの天満宮を18世紀終わり頃に拝殿左横に遷し、大歳神社を1915年に天満宮の左に遷した。
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by enki-eden | 2017-10-19 00:10

顕宗仁賢神社(けんそうにんけんじんじゃ、神戸市西区押部谷町)

兵庫県神戸市西区押部谷町(おしべだにちょう)木津(きづ)569
柴垣の宮、木津の宮。

祭神  顕宗天皇(23代)、
   仁賢天皇(24代)、
   大日孁命(おおひるめのみこと、天照大神)。

創建  5世紀末に仁賢天皇の勅により創建。

 第17代履中天皇(5世紀前半)の孫にあたる弘計(ヲケ、23代顕宗天皇)と億計(オケ、24代仁賢天皇)は、父の市辺押盤皇子(いちのべのおしわのみこ)が皇位継承の紛争に巻き込まれ、従弟の21代雄略天皇(432年-479年)に滅ぼされたので、避難のために播磨国赤石郡(明石郡)の縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の館に、身分を隠して使用人となって匿われた。
 細目とか天目一箇(あめのまひとつ)などの名は、踏鞴製鉄、鍛冶を職業とする者の名である。また、押部谷(おしべだに)の地名由来は忍海部(おしんべ)だと云われている。

 三木市志染町窟屋(いわや)に「志染の石室(しじみのいわむろ)」と呼ばれる岩穴があり、二人の王子が隠れたと云う伝説がある。
 石室の湧水には「ひかり藻」が生息しているので、春にはひかり藻が繁殖し、光を反射して水が金色に光ることから「窟屋の金水(いわやのきんすい)」とも呼ばれていた。しかし、周囲の開発の影響や気候の変動でひかり藻が枯れることもある。

 志染川に沿って御坂神社(みさかじんじゃ)が鎮座、志染の氏神になっている。2015年1月16日投稿の「御坂神社」をご参照ください。
 赤のアイコンが顕宗仁賢神社、黄が志染の石屋、青が御坂神社。


 二人の王子は身分を悟られないように言葉の不自由なふりをして、使用人として働いた。やがて、479年に雄略天皇が崩御、皇太子が即位して22代清寧天皇となったが、清寧天皇には皇子がないため皇位継承者を探していた。
 播磨国の司(みこともち)山部連の遠祖・伊与来目部小楯(いよのくめべのおたて)が、新嘗の供物を整える為に細目の館に来たところ、新築祝いの祝宴をしていた。小楯は、この席で歌に託して身分を明らかにした二人の王子に驚き、仮宮を造り二王子の御殿とした。これが「柴垣の宮」である。
 小楯が清寧天皇に詳細を報告すると、天皇は大いに喜び、直ちに二王子を都の磐余(いわれ)に迎えた。

 清寧天皇が484年に崩御、485年に顕宗天皇が即位、488年に兄の仁賢天皇が即位した。この二王子ゆかりの「柴垣の宮」跡に当社が創建された。

 清寧天皇崩御の後、弘計(ヲケ、顕宗天皇)が弟だと云うことで直ぐには即位しなかったので、暫くの間、叔母の飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が職務を執ったので、飯豊天皇とも呼ばれる。
 飯豊青皇女は様々な呼び方があるが、忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)と云う呼び方があり、「忍海、おしぬみ」は葛城の中の製鉄・鍛冶の地名で、飯豊青皇女の本拠地である。忍海部(おしぬみべ)は飯豊青皇女の部民(べみん、私有民)であった。
 別の説では、飯豊青皇女の姪である飯豊女王(いいどよのひめみこ)と取り違えているとも云う。

 忍海部造細目は飯豊青皇女の配下にあって押部谷(神戸市西区)の部民を統率していたと考えられる。そして縮見屯倉首であるので、志染村(しじみむら、三木市)の屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)の管理人でもあった。神戸市西区押部谷町の北に三木市志染町がある。

 当社は細目氏が宮司を務めていたが、細目氏が明石川下流域まで、そして西へと顕宗仁賢神社を広めたようだ。神戸市西区や明石市には顕宗仁賢神社・宗賢神社が多く鎮座している。

 飯豊青皇女と細目の関係により、細目の家で二王子は匿われたと考えられ、「身分を隠して使用人として働いた」と云うのは「逃避行の苦労物語」を強調するために挿入したのかもしれない。

 社号標と石の鳥居、後ろはシブレ山で、東に六甲国際ゴルフ倶楽部がある。サントリーレディスオープンで有名、今年の6月は宮里藍選手が日本で最後の試合だと云うので大フィーバーになった。
諸見里しのぶ選手や上田桃子選手は六甲国際ゴルフ倶楽部の江連忠ゴルフアカデミーに所属していた。
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   階段の上に大きな檜(ヒノキ)が見える。市民の木として親しまれている。
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   拝殿
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   拝殿の絵馬、二王子の働く様子と、身分を明かして都へ戻る様子。
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   本殿
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   本殿右に天照皇大神社と厄神社
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  本殿背後に手前から権現神社、愛宕神社、若宮八幡社、大歳神社、
  三十八社大明神(子授けの神)、大山祇神社、稲荷神社。
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  本殿左に杵ノ宮神社
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 奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の「角刺宮」跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。
 2014年11月15日投稿の「飯豊天皇」、11月19日投稿の「角刺神社と飯豊天皇陵」をご参照ください。
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by enki-eden | 2017-10-10 00:13

忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の屋敷跡

 兵庫県神戸市西区押部谷町(おしべだにちょう)木幡(こばた)416
 車を停めるスペースあります。

 押部谷地域には、弘計(ヲケ、後の23代顕宗天皇)と億計(オケ、後の24代仁賢天皇)の二王子が、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)である忍海部造細目(おしんべのみやつこほそめ)の使用人として身を隠したという伝説がある。

 三木市に志染町(しじみちょう)細目(ほそめ)と云う地名があり、志染町の北を志染川が流れている。細目は在地の豪族で、志染村(三木市志染町)の屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)の管理を任されていた。
 また、明石川上流の押部谷村(神戸市西区)にある忍海部(おしんべ、大和葛城・忍海部女王の領地)の管理も任されていた。逃亡している二王子は忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)の甥なので当地に匿われたと考えられる。
 押部谷の地名は忍海部からきている。三木市志染町は神戸市西区押部谷町の北側にあり、細目は両地区の管理を任された在地の豪族であった。

 赤のアイコンが細目の屋敷跡、紫が明石川、黄が志染川、青が志染町細目


 忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)は17代履中天皇(400年頃-435年頃)と葛城黒姫の皇女で、大和国葛城の忍海(葛城市忍海、おしみ)を領有していた。忍海は葛城氏の鍛冶工房であった。
 忍海部女王の祖父は16代仁徳天皇(385年頃-429年頃)で祖母は磐之媛(葛城襲津彦の娘)である。
 忍海部女王は23代顕宗天皇(485年即位)と24代仁賢天皇(488年即位)の叔母になる。飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)とも呼ばれる。
 忍海地区には忍海部女王(飯豊青皇女)の忍海角刺宮(現・角刺神社)、近鉄電車忍海駅(おしみえき)、忍海(おしみ)小学校など忍海関連の名がある。

   奈良県葛城市忍海


  「史跡 忍海部造細目屋敷跡」の石碑、右に稲荷神社。巨木が多い。
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  細目の屋敷跡石碑の左に木幡若宮神社(こばたわかみやじんじゃ)が鎮座。
   祭神 応神天皇(15代)、
      顕宗天皇(けんそうてんのう、23代)、
      仁賢天皇(にんけんてんのう、24代)、
      厳島大神(いつくしまのおおかみ)。
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 後ろの山はシブレ山(275m)、山頂近くに天狗岩がある。
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by enki-eden | 2017-10-04 00:23