古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

<   2017年 11月 ( 7 )   > この月の画像一覧

纏向遺跡の墓所

 2世紀の大和国の中心地は唐古・鍵であったが、西暦185年頃に饒速日(西暦165年頃出生)が大部隊で筑紫国から大和国に東遷し、纏向を都にした。
 纏向は政治、祭祀、交易の都市で、運搬用の運河も掘られた。加えて、身分により大小の墳墓も多く築造された。
 弥生時代の終末期に纏向型前方後円墳が築造され、西暦180年頃築造の箸墓古墳が大型の定型的前方後円墳となって古墳時代に入っていく。
 纏向は初瀬川(大和川)が奈良盆地(当時は大和湖)に流れ込んで、三輪山の西側に扇状地を造った地域に位置している。

 箸墓古墳の北500mの桜井市大字太田に、3世紀後半築造の「メクリ1号墳」がある。
 纏向遺跡で確認されている唯一の前方後方墳である。全長28m、後方部19.5mと確認されているが、土は削り取られて、今は何もない平地になっている。幅4mの周濠からは多くの土器が出土した。

 桜井市教育委員会によると、そのメクリ1号墳の東側で、3世紀築造の方形周溝墓が新たに3基見つかった。過去の調査から少なくとも6基の墓が造られていた。
 調査をした桜井市纏向学研究センター(寺沢薫所長)によると、3基の周溝墓は3世紀前半から後半にかけて順番に築造されたと云う。一番大きいものは南北8.5m、東西9m。
 小規模の墳墓であるので、初期大和政権を支える中堅以下の人物が埋葬されたと考えられる。この辺りは纏向の小規模墓所であったが、現在は畑や野原になっている。
   赤のアイコンがメクリ1号墳


 メクリ1号墳の500m南西に「南飛塚古墳」がある。幅8.5m、深さ60cmの周濠が確認されているが、全体像は未確認。
 祭祀用の木造建物が倒壊したままの状態で出土しており、溝から3世紀後半の土器が出土した。現在は畑の状態になっている。

 南飛塚古墳の北西250mに「東田大塚古墳(ひがいだおおつかこふん)」がある。
 そのすぐ北に「纏向矢塚古墳」、「纏向石塚古墳」、「纏向勝山古墳」がある。何れも3世紀前半から中頃に築造の纏向型前方後円墳で周濠が確認されている。古墳時代に入る直前の墳墓群になっている。
 その古墳群の中に「桜井市纏向学研究センター」がある。
[PR]
by enki-eden | 2017-11-24 00:16

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は五十猛命(いそたけるのみこと)か

 日本書紀によると、大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神)の子の天忍穂耳尊と高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)の子が天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)になっている。
 西暦201年頃に「葦原の中つ国」が平定された後、天孫の瓊瓊杵尊が「筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)」に降臨した。浜辺で美人の木花開耶姫(このはなさくやひめ、大山祇神の娘)を見つけ妻とした。大山祇神は木花開耶姫と共に姉の磐長姫(いわながひめ)も妻として送ったが、磐長姫は醜いと云って返された。

 高千穂の所在地は、宮崎県・鹿児島県と云われており、関連の地名、伝承、陵墓参考地などが残っている。しかし、「筑紫」は現在の福岡県であり、私見ですが、「日向(ひむか)」は日向峠(ひなたとうげ、糸島市高祖)周辺、「高千穂」は高祖山(たかすやま、416m)、「槵触峯」は高祖山の東南の古名・クシフル山だと考えています。
 そして降臨した瓊瓊杵尊(180年頃出生)が出かけた「浜辺」は糸島半島の海岸です。現在の糸島市は半島とつながっているが、3世紀の当時は瑞梅寺川と泉川のあたりが細い海峡になっていた。糸島半島は島になっていたので志摩国(島国)で、魏志倭人伝記載の「斯馬国」であった。
 そして海峡の南が「伊都国」であった。伊都国の雷山(らいざん、955m)から北に流れる川の土砂による扇状地の拡大で海峡がなくなったと考えられる。海峡は川として部分的な形跡を今に残している。
 瓊瓊杵尊が木花開耶姫に会ったのはこの海峡付近だったかもしれない。雷山の中腹に鎮座する雷神社(いかづちじんじゃ)の主神は水火雷電神(すいからいでんしん)で瓊瓊杵尊のことである。
 大山祇神一族は伊都国と斯馬国に住んでいた。その後、愛媛県今治市の大三島に移ったか。


 2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。

 魏志倭人伝記載の3世紀の伊都国に置かれた一大率の長官名が「爾支(にき)」である。糸島半島の志摩の海岸線は、「幣(にぎ)の浜」、「幣の松原」である。瓊瓊杵尊の名と繋がりがありそうだ。

 佐賀県三養基郡(みやきぐん)基山町(きやまちょう)宮浦2050の荒穂神社の主祭神は瓊瓊杵尊で、五十猛命も祀られている。祭神は変遷したかもしれない。社伝によると、瓊瓊杵尊が基山(きざん、404m)に登り、国見をしたとある。
 福岡県筑紫野市武蔵694に鎮座する荒穂神社の祭神は五十猛命になっている。当社は三養基郡基山町の荒穂神社から勧請したと云う。祭神は瓊瓊杵尊とも云われるが、本来は五十猛命とされている。筑前国続風土記附録に「荒穂神社は五十猛命を祀る」とある。

 「荒穂の神」が瓊瓊杵尊(180年頃出生)なのか、五十猛命(160年頃-220年頃)なのか。五十猛命は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と大矢女命(筑紫紀氏)の子で、素戔嗚尊に最もよく似ていたと云う。素戔嗚尊に北西部九州の統治を任され、対馬国・壱岐国・末盧国(佐賀県)・斯馬国(志摩国)・伊都国を統括する王であった。
 名前の五十猛(いそたける、いたける)も「いそ(磯)猛」で母の大矢女命(筑紫紀氏)は海人族であった。筑紫紀氏は須佐嗚尊(すさのお)を祖として、五十猛命に続く。海人族だから造船用の木材を必要とし、林業の神となった。部族名も紀(木)である。大和朝廷では一部の紀氏は公家になった。

 大国主命の統治する宗像国(宗像市)・刺国(福津市)は201年頃に天孫族によって国譲りをさせられたが、軍事力の強い五十猛命は国譲りしなかったであろう。
 それでも天孫族の瓊瓊杵尊の足跡が伊都国・斯馬国にあるのは降臨があったと云うことだ。その瓊瓊杵尊は五十猛命だと云う説がある。
 雷山中腹鎮座の雷神社の主神は水火雷電神で、瓊瓊杵尊となっているが、水火雷電神は五十猛命だと云う人もいる。瓊瓊杵尊と五十猛命は同一神なのか。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_2145552.jpg

 五十猛命が伊都国・斯馬国(志摩国)の王で、大山祇神も当地の豪族で、大山祇神の4人の娘の嫁ぎ先は神大市姫が素戔嗚尊、木花開耶姫が瓊瓊杵尊、木花知流姫が素戔嗚尊の第1子八嶋野であるから、瓊瓊杵尊は五十猛命の可能性がある。

 しかし、瓊瓊杵尊は天津神(天神)、五十猛命は国津神(地祇)として区別されている。両者の母親も違うので、やはり別神と考えられる。
 本来、北西部九州で崇敬されていたのは五十猛命であるが、7世紀・8世紀には素戔嗚尊・五十猛命の評価が大きく低下、代わりに瓊瓊杵尊が崇敬された可能性が高い。
 素戔嗚尊の評価を見直したのは平安時代の52代嵯峨天皇(786年-842年)で、「素尊(素戔嗚尊)は則ち(すなわち)皇国の本主なり」と述べた。

 日本書紀は海幸彦と山幸彦の間に火明命を挿入しているのは、海幸彦と山幸彦は瓊瓊杵尊の子の世代(195年頃出生)ではなく、天火明命と同じ世代(140年頃出生)ですよと云う「筆法」になっている。
 天照大神と高皇産霊尊の系図に海部氏・安曇氏の系図をはめ込んで直列にし、天照大神を天皇家の祖神にしている。しかし、「事実はこうだ」と筆法によってきちんと事実を示している。
[PR]
by enki-eden | 2017-11-23 00:07

天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)

 天地開闢のときに現れた五柱の神を別天津神(ことあまつかみ)と云う。天御中主尊、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、可美葦芽彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)の五柱の神である。
d0287413_17514035.jpg

 私見ですが、この五柱の神は紀元前1世紀に博多周辺の地域で代々首長を務めた。揚子江周辺の江南人(倭人)の中の呉人が博多に立ち上げた国で、西暦元年に奴国として建国、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦元年出生)が西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」となった。
 王の名は書(ふみ)によって少しずつ違っている。
 2代目が豊雲野尊、3代目が宇比地邇尊(ういじにのみこと)、4代目が角杙尊(つのくいのみこと)で西暦107年に後漢に朝貢して倭王帥升となり、政治の面でも交易の面でも北部九州の28ヵ国で成り立った倭国を統率した。
 5代目が意富斗能地尊(おおとのじのみこと)、6代目が淤母陀琉尊(おもだるのみこと)、7代目が伊弉諾尊(いざなぎのみこと、西暦125年頃-190年頃)と続く。
 この時代になると、出雲系の素戔嗚命や大国主命が現れ、日本列島の広範囲に政治的・交易的な協力関係が広まってくる。

 紀元前1世紀の別天津神のなかでも天御中主尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊は造化三神と呼ばれ、特に天御中主尊は中心的な最高位の神として重要視されている。
 天御中主尊を祀る神社は、北極星・北斗七星信仰、妙見北辰信仰、水天宮信仰と結びつけて天御中主尊を信仰している。これらの信仰は中世の神仏習合思想と共に広まったと考えられる。

 兵庫県明石市上の丸1丁目17-18の日蓮宗本松寺の西北に妙見社が鎮座、妙見尊(天之御中主神)を祀る。明治の神仏分離令により本松寺と妙見社に分かれた。
 本松寺は立派な桜、妙見社は見事なツツジで有名。
d0287413_17523458.jpg

[PR]
by enki-eden | 2017-11-17 00:18

富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)

 奈良市丸山1丁目にある円墳の富雄丸山古墳は、円墳としては全国第1位の規模の径110mで、築造は4世紀後半頃。時期的には15代応神天皇(363年-403年)の時代である。
 墳丘表面には葺石と埴輪片があり、粘土槨の内部に6.9mの割竹形木棺と多数の副葬品が出土し、出土品は国の重要文化財に指定されている。墳丘北東部には短い造り出しがある。
 富雄丸山古墳の東側を富雄川が流れている。

  赤のアイコンが富雄丸山古墳、黄が垂仁天皇陵、青が神功皇后陵



 従来の発掘調査では2段築成の径86m、高さ10mとなっていたが、今年の奈良市教育委員会による上空からのレーザーによる三次元計測調査で、3段築成の径110m、高さ14.3mと確認され、全国で最大規模の円墳であることが分かった。これまで国内で最大とされた埼玉県行田市(ぎょうだし)の丸墓山古墳の径105mを上回った。
 出土品は石製品類、銅製品類、鉄製品類の他、三角縁画文帯五神四獣鏡、三角縁吾作銘四神四獣鏡、三角縁画像文帯盤龍鏡が出土、銅鏡は「国の重要美術品」になっている。
 被葬者は神功皇后(321年-389年)や応神天皇の大和政権と結びついた相当の有力者だったと考えられる。5.5km北東には神功皇后陵がある。
[PR]
by enki-eden | 2017-11-16 11:19

弥生末期の人口

 3世紀(弥生末期)の列島人口は60万人ほどと考えられている。その中で、倭国(北部九州28ヶ国)の人口はどれくらいになるのか。
 列島総人口の25%が倭国に住んでいたとすれば、倭国の人口は15万人ほどになる。
d0287413_1493880.jpg

 同じ3世紀の大陸は、魏、呉、蜀の三国時代で、三国の人口は合計で約500万人であった。

 魏志倭人伝記載の各国戸数は、対馬国 1,000戸、一大国(壱岐)3,000戸、末盧国(佐賀県)4,000戸、伊都国(糸島市)1,000戸、奴国(福岡市)20,000戸、不弥国(福津市・宗像市)1,000戸、投馬国(福岡県東部・大分県)50,000戸、邪馬台国(筑後川周辺地域)70,000戸となっている。
 合計すると150,000戸になる。倭国の人口が150,000人とすれば、150,000戸は150,000人のことになる。

 倭国の中心国は、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の6ヵ国で、上記8ヶ国以外の20ヵ国は、中心国の属国か関係国で、その人口は6ヶ国の人口に含まれていると考えられる。
 私の過去の投稿で、倭国は29ヶ国と書いたが、今回は28ヵ国とした。それは魏志倭人伝に「奴国」が2度記されており、倭国の最も重要な国は「奴国」であることを示すために奴国を2度記したと考えられるからである。しかも2度目を29番目の最後に記すことで「奴国が最も重要な国」であると示唆する「筆法」だと考えられる。

 佐賀県、長崎県、福岡県、大分県の現在の人口は845万人ほどになっている。3世紀に比べると56倍にもなっている。日本全体の人口は3世紀の列島人口の208倍にもなっている。
 倭国の人口比率は、3世紀に総人口の25%、現在では7%、3世紀の列島の中心は北部九州にあった。列島の中心が4世紀には北部九州から近畿地方に移り、17世紀には関東に移り、19世紀の産業革命で人口が爆発的に増えていった。
[PR]
by enki-eden | 2017-11-11 00:06

湊川神社(神戸市)

 久しぶりに湊川神社に参拝しましたが、七五三詣りで大賑わいでした。
d0287413_9425669.jpg

d0287413_9432389.jpg

 入口の神門近くにオリーブの大きな古木。140年ほど前にヨーロッパから数本持ち帰った中の1本で日本最古のオリーブの木。
d0287413_9434381.jpg

 拝殿前に親子さざれ石
 10年ほど前に奉納されたさざれ石の二塊は、京都府舞鶴市岡田由里で採取された。まるで楠木正成公(大楠公)が「桜井の駅」(大阪府三島郡島本町桜井1丁目)で我が子・正行公(小楠公)を諭す姿に想われ、「親子さざれ石」と名付けられた。
 桜井の駅は楠公父子決別の場所として知られる。
d0287413_944036.jpg

 2013年3月26日投稿の「湊川神社」をご参照ください。
[PR]
by enki-eden | 2017-11-06 09:46

倭の五王

 中国の5世紀から6世紀は南北朝時代で、北朝と南朝に分かれていたが、それぞれ短い期間に国が入れ替わっていった。
 北朝は北魏(386年-534年)から東魏(534年-550年)と西魏(534年-556年)に東西分裂する。
 更に北斉(550年-557年)と北周(556年-581年)に分かれる。
 南朝は宋(420年-479年)→斉(479年-501年)→梁(502年-556年)→
    陳(557年-589年)と移り変わる。建康(南京)を首都とする。

 北朝の北魏は、386年に鮮卑族の拓跋氏によって華北に建国された。北魏は五胡十六国時代(304年-439年)の戦乱を終焉させ、最終的には442年に華北を統一した。北魏は五胡十六国時代から遊牧民的習俗を改め、漢化政策に積極的であった。
 首都も洛陽に遷し、徹底的に漢化を進め、多くの仏教寺院・仏像を造った。胡族と漢族の通婚を奨励した。

 戦乱の五胡十六国時代には、大和王権は大陸と殆ど交易を行えなかったが、その間に国家形成を進めることができ、古墳時代に入って100年を経ると、神功皇后の新羅討伐(363年)をきっかけに朝鮮半島には頻繁に軍隊を派遣していた。

 北魏時代の日本の天皇は、15代応神天皇、16代仁徳天皇、17代履中天皇、18代反正天皇、19代允恭天皇、20代安康天皇、21代雄略天皇、22代清寧天皇、23代顕宗天皇、24代仁賢天皇、25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇であるが、大和政権は華北の北魏との政治的・文化的な結びつきが強かったと考えられる。
 しかし、北魏書や北斉書には外国伝(倭国伝)は記されていないので、大和政権との関係は分からない。

 「倭の五王」による南朝の宋への朝貢は、先ず413年に倭王・讃が東晋(317年-420年、南京)に朝貢した。年代的には倭王・讃は仁徳天皇。東晋は420年に宋に禅譲させられ宋が成立。
 その後421年から478年までの倭王・讃、珍、済、興、武は南朝の宋に朝貢(宋書、夷蛮伝・倭国伝)した。421年と425年に倭王・讃が朝貢、年代的にはこれも仁徳天皇。
 430年に倭王が朝貢、倭王名が記されていないが、年代的には履中天皇。
 倭王・讃が没し、弟の珍(安東将軍倭国王)が438年に朝貢、年代的には反正天皇か允恭天皇。
 443年(安東将軍倭国王)と451年(安東大将軍)に倭王・済が朝貢、年代的には允恭天皇。
 460年に倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 462年に済の子、倭王・興(安東将軍倭国王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 倭王・興が没し、477年に弟の倭王が朝貢、年代的には雄略天皇。
 478年に倭王・武(使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王)が朝貢、年代的には雄略天皇。
 宋の後を継いだ斉は479年に倭王・武を鎮東大将軍(斉書、倭国伝)に、年代的には雄略天皇。
 斉の後を継いだ梁は502年に倭王・武を征東大将軍(梁書、武帝紀)に進号、年代的には武烈天皇。

 倭の五王とは年代的に仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇・武烈天皇の時代であるが、年代的に少し辻褄の合わない部分がある。
 そして、大和政権が華北の北朝と交易せず、江南の南朝だけと交易・朝貢したと考えるのは難しい。
 北魏と宋の地図、ウィキペディアより。
d0287413_10203214.jpg

 古事記・日本書紀の5世紀の記事には、朝鮮半島の百済・任那・新羅・高麗・呉(高麗の隣国か属国)との往来や戦争の記事は多いが、中国の記事は全くない。
 記紀成立の8世紀の日本は国家意識が非常に高く、「中国(中心の国)」とは日本のことであるとさえ言っている。そんな風潮の中で、皇室の先祖の卑弥呼、臺與、大和の天皇が中国に朝貢貿易をしていたなどと云う記事は書けなかったと考えられる。

 私見ですが、北魏書・北斉書に倭国伝はありませんが、大和政権は華北の北魏と交易していたのではないかと考えています。
 倭国が南朝の宋と交易したのは宋書夷蛮伝・倭国伝に記されているが、「倭の五王」を天皇に特定できにくい部分がある。実際に交易していたのは有力豪族なのではないか。

 当時の有力豪族に葛城氏がいるが、葛城円(かつらぎのつぶら)が456年に雄略天皇に殺される。大伴金村も540年頃に失脚、物部氏も海外にはあまり興味を示さない。
 葛城氏と同じく武内宿禰の子孫と云われる蘇我氏が朝廷の代行として南朝と交易し、富と軍備を蓄え、配下に東漢氏(やまとのあやうじ)を置き、物部氏を超える最有力豪族にのし上ったのではないか。当時南朝でも北朝でも仏教が盛んであったので、蘇我氏は大和で仏教を定着させた。
  武内宿禰-蘇我石川宿禰-蘇我満智-蘇我韓子-蘇我高麗(馬背)-
  蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我蝦夷-蘇我入鹿

 
 5世紀の時代に蘇我満智は既に朝廷の財政を統括していた。地方からの税・貢物、海外使節の接待、朝鮮半島からの貢物、そして内外交易品の管理を統括し、勢力を伸ばした。
 蘇我氏は主要な海人族を統率し、朝廷の代表として自ら大陸、朝鮮と交易をしていたと考えられる。蘇我稲目の時代に各地に屯倉(みやけ)を設立、蘇我氏の発言権が更に大きく躍進した。
 蘇我馬子は587年に物部守屋を討つ。天皇家を凌ぐ勢いになった蘇我氏は、蘇我馬子(626年没)・蝦夷(645年没)・入鹿(645年没)の3代の横暴により滅ぼされ、勢力が弱まった。

 北魏後継の北周の楊堅(爵号は随、541年-604年)が589年に全国統一し、南北朝時代を終焉させた。楊堅の爵号「随」に似た「隋」を国名にして建国する(初代文帝)。
 2代皇帝・煬帝(569年-618年)の失政と外征失敗により謀反が起こり、煬帝は618年に殺される。聖徳太子(574年-622年)は遣隋使を数回派遣して隋を模範とした。遣隋使の小野妹子(蘇因高)が隋の裴世清を伴って帰国した。
 隋の4代皇帝・恭帝侗から禅譲を受けた李淵(566年-635年)が618年に唐を建国する。李氏は隋の鮮卑系貴族で、唐国公の爵位を与えられていたので、李淵(高祖)は国号を唐とした。
 隋も唐も鮮卑族の拓跋氏が支配層を形成した。

 日本は遣隋使、遣唐使を派遣して中国文化を積極的に取り入れることになるが、その前段階として北魏と交流していたのは間違いないと見ています。

 6世紀飛鳥時代の仏像は北魏様式と云う。弥勒菩薩半跏思惟像の穏やかな表情をアルカイック・スマイルと表現される。洛陽の北魏から長安の隋・唐に時代が変わっても、政治的・文化的・宗教的な基本は漢化した北魏の制度が引き継がれていった。
[PR]
by enki-eden | 2017-11-03 00:16