古代史探訪

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天造日女命(あまのつくりひめのみこと)

 先代旧事本紀の天神本紀に「饒速日命(165年頃出生)が185年頃に豊国の宇佐から大和国に東遷した時に、32人の従者と25部の物部軍団その他を従え、膨大な人数による大部隊で天降った。」とある。
 対馬・壱岐の豪族、遠賀川周辺部族、筑後川周辺部族、海部氏・尾張氏・阿曇氏、高皇産霊の子など多くの部族が饒速日東遷に従った。

 この東遷に従った人々の中に、綿積神の後裔で阿曇連等(あづみのむらじたち)の祖である天造日女命もいた。天造日女の別の読み方は「あめのみやつこひめ」があり、卑弥呼のことであると云う説がある。

 天造日女とよく似た名前に天道日女(あめのみちひめ、対馬の天日神の娘)があり、天道日女は天火明(彦火火出見、140年頃出生)の妻となり、天香語山(尾張連の祖)を生んでいる。
 天日神は対馬県主等の祖で、天造日女と共に饒速日東遷に従って大和国にやって来た。天造日女は天道日女のことかもしれない。西暦160年頃の出生である。
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 海部氏の勘注系図には天火明命の6世孫建田勢命の妹・宇那比姫命が記されている。建田勢命は7代孝霊天皇に仕えており、西暦230年頃の出生である。妹の宇那比姫命もその頃の出生であろう。
 勘注系図ではこの宇那比姫命の別名を天造日女命、大倭姫、竹野姫、大海靈姫命、日女命としている。
 阿曇連等の祖である天造日女命と同じ名前だが、時代が違う。宇那比姫命を卑弥呼(179年-247年)だと云う説もあるが、これも時代が違う。臺與であれば宇那比姫命とほぼ同じ時代になるが・・・
 同じ世代でも、臺與(235年頃-295年頃)は筑紫の生まれ、宇那比姫は大和か紀伊の生まれなので、これも別人となる。

 大陸では魏が265年に滅亡したので、倭の女王・臺與は266年に晋に朝貢した。しかし、大陸の戦乱と北方異民族の侵入により、倭国(北部九州)は大陸と交易ができなくなり、大陸に近い筑紫も不安定になったため、私見ですが臺與は270年頃に大和国に東遷してきたと見ています。そして大和政権の系譜に入った。
 臺與はミマキイリヒコを連れて東遷、10代崇神天皇(251年-301年)として全国制覇を成し遂げさせた。
 日本書紀には臺與は倭迹迹日百襲姫として記されたかもしれず、箸墓古墳に埋葬された。海部氏は臺與を海部氏出身の宇那比姫と記したか。
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by enki-eden | 2018-03-29 00:07

天日神命(あめのひみたまのみこと)

 天日神命は長崎県対馬市美津島町(みつしままち)小船越(こふなこし)の阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)に祀られており、対馬県主(あがたぬし)等の祖。
 神仏習合の時代には照日権現と称し、オヒデリさんと呼ばれていた。



 天日神命は別名を天照魂命(あまてるみたまのみこと)と云い、高御魂尊(たかみむすびのみこと)の子孫だと云う。また、名前が似ていることで、天照国照彦火明命(尾張氏、海部氏の祖)と同一とも云う。
 火明命の別名が天照御魂神であるので、天日神命(天照魂命)とそっくりの名前である。しかも火明命の妃は佐手依姫と天道日女命でどちらも対馬の出身である。
 それでも、火明命と天日神命は別神かもしれない。図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 先代旧事本紀の天神本紀によると、天日神命(あまのひのかみのみこと)は対馬県主(つしまのあがたぬし)等の祖と記され、饒速日東遷(私見ですが西暦185年頃)に従っている。
 天日神命の娘は天道日女命で、天火明命(彦火火出見)の妃となり、天香語山命を生んでいる。これを事実とすれば、天日神命は天火明命の義父になり、関係は深いが別神となる。

 先代旧事本紀の国造本紀によると、神武朝に高魂尊の五世孫の建弥己己命(たけみここのみこと)を津嶋県直(つしまのあがたのあたい)にしたと記されている。
 対馬市厳原町豆酘字龍良山の高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)の祭神は高皇産霊尊で、高皇産霊尊の子孫である建弥己己命(たけみここのみこと)は、その南方の与良に天日神命を祀った。
 その建弥己己命が大和国橿原には高御魂神社を創建した。旧名は目原坐高御魂神社(めはらにますたかみむすひじんじゃ)と考えられており、現在の天満神社(橿原市太田市町、おだいちちょう)かもしれないが、よく分からない。

 対馬県主以外には、新撰姓氏録の「摂津国 神別 天神 津島朝臣 津速魂命三世孫天兒屋根命之後也」があり、「椋垣朝臣」、「荒城朝臣」、「中臣東連」、「神奴連」、「中臣藍連」、「中臣太田連」、「生田首」なども同じとある。
 また、「河内国 神別 天神 菅生朝臣」や「和泉国 神別 天神 宮處朝臣」なども同じとなっている。
 対馬出身の対馬氏が天児屋根命(中臣連等の祖)の後裔であると云うのは、朝廷での卜部としての対馬氏の職種が中臣氏の配下であったことと関係していると考えられる。
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by enki-eden | 2018-03-21 09:45

三国志とタウポ火山の噴火

 3月7日放送のNHK番組「三国志の真相」で、黄巾の乱(西暦184年-205年)は暴徒の乱とされているが、地球規模の異常気象による飢餓が原因なのではないかと解説していた。
 その異常気象の原因は、ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火により、空を覆う噴煙(噴煙高度50km)が地球規模に拡大したからと云う。

 紀元前206年から400年以上続いた漢(前漢と後漢)は、飢饉による反乱と北方民族の侵入で衰退し、魏・蜀・呉の三国時代に入っていく。

 また、日本地理学会もこのタウポ火山の大噴火による冷夏凶作と倭国乱の関りについて発表している。その一部を抜粋すると、
 『中国史書によれば2世紀末に倭国に「乱」があり、それを契機に卑弥呼が国王に共立されたという。結論を先にすると「倭国乱」は冷夏による2年続きの飢饉で起きた社会不安と食を求める民衆の流浪が実態であり、戦乱ではない。
 冷夏の原因はタウポ火山の大噴火である。非農業人口が多く稲作依存率が高い地方(弥生時代の先進地域、すなわち九州北部)ほど冷夏飢饉の影響は深刻だったはずである。
 クラカタウ火山大噴火による28代宣化天皇元年(536年)の飢饉の際にも、各地の屯倉の米を那の津(博多港)の倉庫に集めるよう、勅令が出されている。』

 ニュージーランドではタウポ火山の噴火が数万年前から続いており、付近では現在も火山活動や群発地震が頻発している。西暦181年に起きた史上最大規模の巨大噴火によって陥没したカルデラは、現在タウポ湖になっている。タウポ湖の表面積は616㎢、琵琶湖が670㎢です。

 私見ですが、西暦181年は初代神武天皇が生まれた年です。タウポ火山帯の大噴火によって異常気象が発生、大気汚染による人々の健康被害や死亡、数年続く農産物の不作・飢餓などにより、日本列島だけでなく広範囲に大混乱が起きたと考えられる。
 饒速日が西暦185年頃に新天地を求めて宇佐から大和国へ大部隊で東遷、纒向(まきむく)を都にした。神武天皇も204年に遠賀川を出発、211年に大和国橿原で即位。
 その後、270年頃に倭国の女王臺與も大和国へ東遷、同行したミマキイリヒコが10代崇神天皇として全国を制覇し、弥生時代から古墳時代へ入っていく。
 巨大火山の噴火による異常気象で世界が大きく変化することになった。

 宣化天皇時代の日本列島に飢饉をもたらしたインドネシアのクラカタウ火山は西暦535年に噴火し、ジャワ島西部のカラタン文明を滅ぼし、世界各地に異常気象をもたらした。
 この異常気象を発端として、ヨーロッパではゴート戦争(535年-554年)、スラブ人の南下(542年)、黒死病(ペスト、543年)の蔓延、ペルシャとのラジカ戦争(541年-562年)、ゲルマン人の南下などが起きている。
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by enki-eden | 2018-03-15 10:17

ひょうごの遺跡(兵庫県立考古博物館の展示)

 兵庫県立考古博物館の調査研究10年間(2009年~2018年)の集大成!
 展示期間は1月20日から3月25日までです。兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1
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   紅梅が満開でした! (3月2日)
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 姫路市南西部の沖積低地に広がる「池ノ下遺跡」出土の縄文土器で、約4,000年前。
 「磨消縄文(すりけしじょうもん)」の深鉢で、上部全周に縄目を付けた後、棒で文様を描き、文様外側の縄目をなで消した。
 この文様は瀬戸内を中心に、西は九州東部から東は北陸・東海地方まで広範囲に普及していた。岡山県倉敷市の中津貝塚で最初に発見されたので、中津式土器と呼ばれる。
 縄文時代は、14,000年前から2,500年前まで、ほぼ同じ民族の縄文人が列島全体に交易し、均等な文化を共有していた。
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 加古川市の坂元遺跡(6世紀)から出土した石見型盾形(いわみがたたてがた)埴輪。
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   坂元遺跡出土の武人埴輪
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 洲本市の下加茂遺跡の墓から出土した精巧な朱塗りの杓子(しゃくし)。
 漆は使わず、朱を塗り込めている。
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 但馬地域最大の前方後円墳(134.5m、5世紀)である池田古墳出土の水鳥形埴輪。古墳の形や埴輪などは大和・河内の王墓の様式を取り入れている。
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 奈良時代、播磨では須恵器の製造も盛んで、良質なものは税として平城京に納めていた。
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 淡路島南端の南あわじ市阿万(あま)東町の九蔵遺跡(ぐぞういせき)から銀銭「和同開珎」が1枚出土した。全国では48枚目。
 淡路島は古代から朝廷に食材を献上する「御食国(みけつくに)」であった。魚介類採取だけではなく製塩も海人族の重要な生業であった。銀銭の出土は朝廷との強いつながりが伺える。
 製塩土器と銀銭
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 日本書紀の「国生み」によると、『伊弉諾尊と伊弉諾尊が天の浮橋の上に立って、「この底の一番下に国がないはずはない」と云われ、玉で飾った矛を指し下して、下の方を探られた。
 そこに青海原が見つかり、その矛の先から滴った海水が凝り固まって一つの島になった。これを名付けておのころ島と云う。
 二柱の神はそこでこの島にお降りになって、夫婦の行為を行って国土を生もうとされた。』とある。
 この話は「国造り、国生み」を夫婦の行為に例えて表現していると私は考えているが、考古博物館の説明では、この有名な国生み神話は、土器を用いた塩作りの様子を反映したものではないかと云っている。弥生時代には、海水を素焼きの土器に入れ、それを炉で煮詰めて塩を作った。
 沸騰して泡立った海水を静める冷却具として細長い石棒を土器に入れるとうまくいった。その様子を淡路島の海人族が神話として伝えたかもしれないと云う。
 同じように、記紀では踏鞴製鉄を出産に例えて表現されている。例えば、伊弉冉命が火の神を生むときに体を焼かれて亡くなった、木花開耶姫が瓊瓊杵尊の子を生むときに「天孫の子ならば火も損なうことができないでしょう」と云って火をつけて室を焼いた、など。

 この他多くの出土品が展示されており、楽しい一日を過ごすことができますよ!
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by enki-eden | 2018-03-10 19:38

近津神社(ちかつじんじゃ、小野市)

兵庫県小野市粟生町(あおちょう)1489  無料駐車場あります。
祭神 天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、
   天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
   天太玉命(あめのふとたまのみこと)。

創建 24代仁賢天皇(449年-498年)の8年(495年)
   山に光を放つ大木があり、その麓に社殿を建てたと云う。

豊臣秀吉(1537年-1598年)が三木城を攻撃する前に当社に戦勝祈願し、戦勝後に社領を寄進した。



 天津彦火瓊瓊杵尊は大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘の木花開耶姫(このはなさくやひめ)を妻とし、海幸彦、山幸彦などが生まれた。
 西暦201年頃の葦原の中つ国平定の後、天照大神の命令で瓊瓊杵尊は高天原から降臨し、葦原の中つ国を統治した。(天孫降臨)

 天児屋根命(中臣氏の祖)は天照大神の岩戸隠れの時、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに、天太玉命(高皇産霊神の子、忌部氏の祖)とともに鏡を差し出した。

 一の鳥居と二の鳥居、奥の小さい二の鳥居(明神鳥居)は兵庫県指定重要文化財。天正20年(1592年)造立で、古い形式を残している。凝灰岩製で高さ2.7m、柱真々1.8m、柱がエンタシスになっている。
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  拝殿、灯篭の宝珠(玉)の形が矛形になっているのは北部播磨(賀茂郡)に多い。
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   本殿
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   豊受大神宮
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   愛宕神社
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   右が秋葉神社、左が大歳神社。
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©2012 INNAMI KANKI
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by enki-eden | 2018-03-05 10:50

赤穂市有年(うね)地区の古墳

 有年地区では昭和43年度に山林部の文化財分布調査が行われ、古墳77基が見つかっている。その後、赤穂市教育委員会が5年前から行っている埋蔵文化財分布調査によると、有年原・有年牟礼地区の山林部に156基の古墳があると云う。
 赤穂市教育委員会は「播磨地域でも有数の古墳密集地区である」として、報告書を刊行した。



 そして、これまで円墳だと考えられていた放亀山1号墳(赤穂市有年楢原)が前方後円墳であることが分かった。赤穂市内で前方後円墳が確認されるのは初めて。
 築造は古墳時代前期前半の4世紀初めと見られているので、古墳時代が始まったと同時に当地で前方後円墳が築かれたことになる。
 大和国と密接に繋がった当地の首長の古墳だと考えられる。或いは大和国から派遣されたのか。

 当古墳は「くびれ部」がはっきりと確認できたので前方後円墳と確定した。全長38m、後円部径23m、高さ4.4m、前方部長さ18m、高さ2m。前方部、後円部共2段築成で葺石も確認されている。

 有年楢原地区は千種川の西岸に沿った山にあり、古代の踏鞴製鉄が盛んであったと考えられる。この地区には須賀神社が3社も鎮座、素戔嗚尊を祀っている。
 前方後円墳の被葬者は踏鞴製鉄に携わっていたのであろう。千種川の製鉄用砂鉄は有名です。2013年7月2日投稿の「播磨国と大和国の製鉄」をご参照ください。

 その後、7世紀になると秦河勝が赤穂にやって来て、千種川の開発を始める。2012年12月29日投稿の「大避神社」をご参照ください。
©2012 Innami Kanki
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by enki-eden | 2018-03-02 11:40