古代史探訪

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姫宮神社(朝来市生野町)

 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)781
 電079-679-3191  無料駐車場あります。

 祭神 豊玉姫命、
    素戔嗚命、大己貴命、軻遇突智神(かぐつちのかみ、火之迦具土命)。

 創建 応永34年(1427年)

 山名時熙(ときひろ、1367年-1435年)が1427年、生野古城山(いくのこじょうざん、609m)の山頂に築城した際、城中鎮護の神として豊玉姫命を勧請した。
 天文3年(1534年)に大己貴命、慶長12年(1607年)に素戔嗚命を勧請した。
 当社は何度も遷座したが、昭和11年(1936年)に現在地に遷座し、その時に愛宕神社(軻遇突智神)を合祀した。

 当社の立地は市川が西向きの流れから南向きに変わる角に鎮座。市川はここから南方に50kmほど流れ、姫路城の東を通過し、瀬戸内海に注ぐ。
   赤が姫宮神社、黄が古城山


 駐車場に車を停め、市川に架かる橋を渡り、境内に向かう。
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 川沿いに銀山トロッコ道跡が残っている。
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 振り返ると古城山が正面に。
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 参道を行くと西向きの拝殿が見えてくる。
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 本殿と左に境内社(今宮社、春日社、川濯社、天神社、八幡社)。
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 本殿右に1708年創建の恵比須社、2月に「ゑびす祭」が行われる。
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 日本書紀によると、祭神の豊玉姫命は海神(わたつみ)の娘で、海宮(わたつみのみや)に釣り針を探しにやって来た彦火火出見尊(山幸彦・天孫)の妃となる。
 豊玉姫は出産間近となったが、彦火火出見が先に天孫の宮殿(奴国か伊都国)へ帰るので、帰ったら浜辺に産屋を作って待っていてくださいと云った。
 そして豊玉姫は妹の玉依姫を連れて浜辺の産屋までやって来た。豊玉姫は、私が子を生むときに見ないでくださいと彦火火出見に云ったが、彦火火出見はコッソリ覗いた。すると豊玉姫がワニになって這い回っていた。
 恥をかいた豊玉姫は生まれた子の名前を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名付け、妹を留め置いて子を養育させ、自分は海宮に帰ってしまった。
 この時に彦火火出見が詠んだ歌が、
   沖つ鳥(おきつとり) 鴨着く島に(かもつくしまに) 我が率寝し(わがいねし)
   妹は忘らじ(いもはわすらじ) 世(よ)のことごとも

 豊玉姫の返歌は、
   赤玉の(あかたまの) 光はありと 人は言えど
   君が装いし(きみがよそいし) 貴く(とうとく)ありけり

 この贈答の二首を挙歌(あげうた)と云う。

 そしてウガヤフキアエズが成長すると玉依姫を妃として神日本磐余彦(かむやまといわれひこ、神武天皇)が生まれた。西暦181年のことである。

 長崎県対馬市豊玉町(とよたままち)仁位(にい)55に鎮座の「和多都美神社」の祭神は彦火火出見尊と豊玉姫命。
 神社の向きは正確に夏至の日没方向を向いている。これは参拝者が拝礼する方角としては冬至の日の出方向を拝むことになる。冬至の日の出方向を延長すると宗像大社辺津宮(市杵島姫神)の真上を通る。更にその先には宗像三女神降臨伝説の六ヶ岳(339m)がある。関連性について調べる必要がある。ワニ繋がりか・・・
 和多都美神社本殿裏の森に豊玉姫命の御陵があるが、そこは斎場跡の磐座で、御陵は「仁位の高山」にあるとも云う。仁位の高山は神社後方の「烏帽子岳(176m)」か。
 仁位の地名由来は、真珠の産地だったから「瓊(に、たま)」→仁位(にい)となったようで、今でも仁位では真珠の養殖が行われている。


 名前がよく似た山に新高山(にいたかやま)がある。1941年12月2日に海軍連合艦隊司令部から空母機動部隊(空母6隻)に対して出された電文は「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」であったが、このニイタカヤマは台湾の新高山(現在名は玉山、3,952m)であった。当時の日本の最高峰であったので新高山と名付けられた。

 海神・豊玉彦尊が仁位に宮殿(竜宮)を造ったと云う。この宮殿が「海宮(わたつみのみや)」で、彦火火出見尊の歌にある「鴨着く島」である。
 海宮が和多都美神社になり、拝殿前の海中の三柱鳥居の中に磯良恵比須(いそらえびす)のご神体岩が鎮まっており、干潮時に姿を現す。

 「いそら」と云う名前からイスラエルとの繋がりを主張する説もあるが、磯良は安曇氏の祖神の安曇磯良(あづみのいそら)で、安曇磯良丸、磯武良(いそたけら)などとも云い、海人系神社で祀られている。 
 関西では茨木市の磯良神社に磯良大神として祀られている。2013年1月10日投稿の「今城塚古墳・太田茶臼山古墳」の中に(疣水)磯良神社として投稿しているのでご参照ください。
©2012 Innami Kanki
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by enki-eden | 2018-05-26 18:05

杵築神社(きづきじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市夢前町(ゆめさきちょう)菅生澗(すごうだに)594-2
神社の隣の「すごう保育園」を目指して行く。

祭神 大国主神、野見宿弥、菅原道真。
創建 嘉祥3年(西暦850年)

 古くは多氣明神と云われたので、今は多氣宮(竹の宮、竹宮さん)とも呼ばれる。
 当社は300m東の田園地に鎮座していたが、大正3年(1914年)に山麓の現在地に遷座した。
  赤のアイコンが杵築神社、黄が伊和神社、青が廣峯神社。


 当社は12km南東に鎮座の廣峯神社(姫路市広嶺山、ひろみねやま)と関係が深いようだ。

 杵築神社の由緒によると、この地は菅原氏の所領だったことと、菅原氏の先祖が出雲大社(杵築大社、出雲国一宮)に仕えていたことで、大国主神及び菅原氏祖神の野見宿弥と菅原道真の三柱の神を祀った。

 また、飾磨郡誌によると、大国主命が勢力拡大のためこの地に一泊し、後年一社を創建、その偉業を追慕し「多氣の宮」(雄大敢為の意)と称した。
 当社の28km北西に鎮座する播磨国一宮の伊和神社の祭神が伊和大神で、播磨国風土記によると、伊和大神は大己貴命(大国主命)と同神で、出雲国からやって来たとある。
 私見ですが、この伊和大神が菅生澗にやって来て勢力を拡大し、子孫が多氣明神を祀ったと考えています。更に伊和神社の鎮座地が兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407。この「すぎょうめ」の地名が菅生澗の「すごう」になったのではないかと考えています。
 播磨国風土記によると、菅生澗の地名由来は菅(すげ)がたくさん生えていたからと云う。山の谷間の真ん中を菅生川が流れている。

 当社の祭神が相撲の神の野見宿弥であるので、秋祭りでは、村対抗の相撲大会が行われる。拝殿の前に土俵があり、青いシートで覆われている。
 当社は昔、異相撲(ことすもう、喧嘩相撲)と云う荒い相撲を行い、「多氣の宮の喧嘩相撲」として有名であった。昭和初期までは遠方からも地方力士が参加して盛大に行われ、当社は別名を「相撲社」とも呼ばれていた。

  石の鳥居
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  拝殿、左手前に土俵があり、青いシートで覆われている。
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 拝殿内の古い神額には「山王権現 牛頭天皇」とあるが、神仏習合時の名残で、廣峯神社との繋がりか。明治元年に神仏分離令が出たが、各地で神仏習合の名残を見ることができる。
 但し、鹿児島県(島津藩)の廃仏毀釈は徹底していたらしい。
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   本殿
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©2012 Innami Kanki
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by enki-eden | 2018-05-18 11:27

志方八幡神社(しかたはちまんじんじゃ、加古川市)

播磨三社八幡の一つ、志方の八幡さん。 車を境内に停められます。
兵庫県加古川市志方町志方町(しかたちょう しかたまち)301-2  電079-452-0052

祭神 応神天皇、神宮皇后、玉依比売命。
厄払い、安産、交通安全。 能楽が盛ん。

 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征(363年)の途中、当地の宮山に登り、多くの鹿が群れているのを見て、この地を「鹿田」と名付けた。後に志方と表示されるようになった。

 黒田官兵衛(1546年-1604年)の正室・光(てる、1553年-1627年)の実家櫛橋氏は志方城の城主であったので、志方町は「光姫の里」と呼ばれる。



創建
 1111年、宮谷で妙見大明神として創祀され、1492年に志方城主の櫛橋氏が城の1km東北(鬼門の方角)にある現在地の宮山に遷し、石清水八幡宮から八幡神を勧請し、志方城の守り神とした。この宮山には多くの古墳があったが、現在では5基が残っている。
 櫛橋氏は藤原氏の末裔で、代々赤松氏の家臣だったが、1492年に志方城を築いた。城跡は志方小学校になっている。
  
   石の鳥居
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   宮山稲荷神社
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   随神門
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   割拝殿
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   幣殿と本殿
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   えびす神社
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  境内には、この他、大地主神拝所、皇大神宮遥拝所、日読社(天照皇大神)、
 月読社(月読命)、市杵嶋姫社(弁天さん)が鎮座している。

   社務所主屋と門は登録有形文化財
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 能楽堂は伊勢神宮宇治橋の古木を拝領して再建された。10月の例大祭(秋祭り)における御旅所神幸式では地元の児童による「胡蝶の舞」が奉納される。
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 昔、境内に能満寺があった名残で、鐘楼が残っている。
©2012 Innami Kanki

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by enki-eden | 2018-05-11 09:23

神吉八幡神社(かんきはちまんじんじゃ、加古川市)

 兵庫県加古川市西神吉町宮前979  電079-431-2130
 鳥居横にも車を停められるが、左手奥に参拝者用の駐車場があります。
 妙見大明神とも呼ばれる。

 祭神 誉田別尊(15代応神天皇、363年-403年)

 西神吉町大国(おおぐに)が発祥の地で、旧地は下の宮(御旅所)となっている。
 赤が神吉八幡神社、黄が御旅所、青が神吉城跡(東神吉町の常楽寺が神吉城本丸跡)


創建 
 1396年、神火(隕石か?)が天下原(あまがはら、加古川市東神吉町天下原)に落ちた。村人は八幡神の化身に違いないと考え、近くの大国に八幡大神を祀って「神吉の庄」の氏神にした。

 当社は1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で焼き討ちにあい、1468年に領主の神出元盛が宮山(聖武天皇の行宮、標高90m)に遷座・再建した。元の大国村には御旅所が再建され、下の宮となった。
 嘉吉の乱では播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(1381年-1441年)が6代将軍足利義教(1394年-1441年)を暗殺し、幕府討伐軍に敗れた。

 南北朝時代(1336年-1392年)の神出城主・神出範次は赤松氏の系統で、子の元頼に神吉庄を与えたので元頼は神吉元頼と名乗った。神吉元頼は神吉城を築城、代々が神吉城主となった。
 神吉氏は三木城の別所氏と繋がっていたので、1578年に織田信長(1534年-1582年)と別所長治(ながはる、1558年-1580年)が争った時に、神吉城は志方城と共に羽柴秀吉(1537年-1598年)に攻撃され、落城した。

 当社は1633年にも落雷で全焼したので、1683年に再建した。

   石の鳥居
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   随神門
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 神吉頼経(かんき よりつね、1543年-1570年)築造の石垣が一昨年の9月に
改修された。
 3段目の石垣に積まれた石に銘文があり、古いので見えにくいが看板には、
 「この石垣は、天文年中(16世紀中頃)に4代目神吉城主の中務少輔・神吉頼経公の
所築で、後世に願主の名が失われることを恐れ、ここに銘文を記す。」とある。
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   拝殿・幣殿・本殿
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  境内から3.3km西に高御座山が見える。(2017年9月6日投稿)
  いつもははっきり見える山々も、この日は春霞でぼんやり。
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 境内社は、天照皇大神宮(天照大神)、大年神社(大年神)、愛宕神社(武甕槌命)、
 大歳神社(大歳神)、稲荷神社、八坂神社(素戔嗚命)がある。

 秋祭りは大変な賑わいになるようですが、私が子どもの頃の当地では天狗の面をかぶり、
長い棒を持って暴れる「アカ」と云うものが怖かった記憶が今でも残っています。
 今から思えば猿田彦らしいですが、猿田彦であれば老人の姿で矛を持っているが・・・
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©2012 Innami Kanki
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by enki-eden | 2018-05-03 09:32