古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

<   2018年 08月 ( 5 )   > この月の画像一覧

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓い(みそぎはらい)

 伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)は倭王兼7代目奴国王であったが、「タウポ火山の噴火」による地球規模の天候異変の影響で、西暦180年代に起きた倭国大乱により権威失墜し、淡路島に隠遁した。神陵に「伊弉諾神宮」が建立されている。
  
 日本書紀によると伊弉諾尊が、亡くなった伊弉冉命(いざなみのみこと)を黄泉の国(よみのくに、出雲)まで追いかけて行ったが、約束を守らず喧嘩別れになり、島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の泉津平坂(よもつひらさか、黄泉比良坂・伊賦夜坂)で縁切りして、逃げて還った。
 泉津平坂は35mほどの小高い山間にあり、この世と黄泉の国との境界になっている。小さな池と少し大きな池の間にあり、大きな岩が行く手を遮る。
 800mほど北西に揖夜神社(いやじんじゃ)が鎮座しており、伊弉冉命を祀っている。



 伊弉諾尊は筑紫に帰還して、「日向(ひむか)の川の落ち口の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」で穢れ(けがれ)を清める禊祓い(みそぎはらい)をした。
 この時期は西暦170年から180年頃ではないかと思います。

 出雲から筑紫に船で帰ってくるときに、ランドマークとして立花山(たちばなやま、367m)を目指して船を漕いでくる。
 立花山に近づくと、新宮海岸(しんぐうかいがん)に着き、港もある。現在は新宮漁港として整備されている。伊弉諾尊が出雲から帰還して上陸したのはこの新宮海岸だったのではないか。
 立花山の麓からは湊川が流れ、新宮海岸に注いでいる。伊弉諾尊が「日向の川の落ち口の橘の檍原」で禊祓いをした川はこの湊川と考えられる。
 檍原(あわきはら)は立花山から新宮海岸までの雑木林を云うのでしょう。現在は開発されて市街地になっている。
 伊弉諾尊が禊祓いをした時に、多くの神々が生まれている。伊弉諾尊は湊川で禊祓いを終えると、博多湾に入り王宮に戻っていった。
  赤が新宮海岸、黄が湊川、青が立花山。


 新宮海岸の松林(楯の松原)の中の福岡県糟屋郡(かすやぐん)新宮町(しんぐうまち)下府(しものふ)に新宮神社が鎮座。
 祭神は墨江三前神(すみのえみまえのかみ)で、底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神の三柱の神(住吉三神)。住吉三神は伊弉諾尊が禊祓いをした時に生まれた。
 福岡市博多区住吉に筑前国一宮の住吉神社が鎮座しており、当地を檍原(あわきはら)に比定する説もある。

 新宮神社の2kmほど東南の糟屋郡新宮町上府(かみのふ)にも新宮神社が鎮座。祭神は熊野楠日命(くまのくすひのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
 新宮神社は元々湊川河口に鎮座していたが、上府村と下府村が神社運営に関して意見が分かれたので、上府村と下府村に分社して二社に分かれたと云う。

 湊川の河口付近には、糟屋郡新宮町新宮に磯崎神社が鎮座、祭神は大己貴命、少彦名命、素戔嗚命。糟屋郡新宮町湊には綿津見神社が鎮座、祭神は綿津見三神で、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神。1.2km南西の福岡市東区三苫(みとま)にも綿津見神社が鎮座。
 綿津見三神は阿曇連(あずみのむらじ)がお祀りしており、伊弉諾尊が禊祓いをした時に住吉三神と共に生まれた。

 立花山の麓の糟屋郡新宮町立花口に六所神社が鎮座。立花口と云う地名が示すように、駐車場に車を停めて立花山に登れるようになっている。
 祭神は加茂大神、春日大神、天照大御神、宇賀大神、熱田大神、木舟大神。伊弉諾尊の禊祓いの由来により、天照大神が鎮座されたと云う。
 伊弉諾尊が禊祓いの時に、左の眼を洗うと天照大神が生まれ、右の眼を洗うと月読尊(つくよみのみこと)が生まれ、鼻を洗うと素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれた。

 六所神社より600mほど下った糟屋郡新宮町原上(はるがみ)に川上神社が鎮座。祭神は豊玉姫命、玉依姫命、神功皇后、伊弉册命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
 昔は香椎宮の末社となっており、香椎宮の大宮司が参拝のため原上(はるがみ)の神功屋敷(現在は皇后屋敷)に宿泊し、貢物を奉納していた。

 福岡市中央区に鎮座の警固神社(けごじんじゃ)には、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直日神(かんなおひのかみ)、大直日神(おおなおひのかみ)が祀られている。この三柱の神(警固大神)は伊弉諾尊の禊祓いの時、最初に生まれた。
  
 伊弉諾尊の禊祓いを由来として、宮中では「大祓い」が行われてきた。全国の神社でも年中行事の一つとして6月に夏越(なごし)の祓い、12月に大祓いが執り行われている。
 黄泉の国から還ることを蘇る(よみがえる)として、穢れを禊祓いして新しく生まれ変わることが、神道では大変重要な儀式となっている。

 昨今のニュースを見ていると、指導的な立場にある人が欲深い悪だくみをし、大きく報道されても反省せずに、のうのうと暮らしているのは見苦しい限りです。禊(みそぎ)をしてもらわないといけません。
 こんな世情の中で、山口県周防大島で2才の男児を救助した尾畠春夫さん(78才)には全国民が感動しましたね。
Innami Kanki
[PR]
by enki-eden | 2018-08-30 13:46

古代史の復元

 日本の古代史は、戦前の「皇国史観」によって大きく歪められ、戦後の「戦後史学」によって抹殺されてしまった。
 皇国史観に依らず、戦後史学に依らず、私は古代史をできるだけ史実に近づけたいと思い、6年前にこのブログを始めました。

 戦後史学が読んではいけないと云う日本書紀、古事記を私はよく読み、それを補完する他の古文書もよく読み、日々進歩する考古学の成果に学び、神社の由緒や土地の伝承を参考にし、博物館に通い、抹殺された古代史の復元に務めた。
 古代の人々の息づかいを感じるようになり、2,000年前のマレビトが家族か友達のように身近に感じるような氣がしてくる。

 歴史には人物、年代、場所の特定が必要であるが、日本書紀は特に「筆法」をふんだんに使っているので、解明には時間がかかる。
 そして21代雄略天皇が暦を統一したことにより、それ以降の年代は分かり易いが、それ以前の年代には色んな暦が使われているので非常に分かりにくくなっている。

 そんな環境の中で、初代奴国王(漢委奴国王)である「国常立尊」の生年が、偶然にも西暦元年だったことは驚きだった。
 そして、卑弥呼の生年が西暦179年、女王即位が西暦201年、没年が西暦247年、
 神武天皇の生年が西暦181年、即位年が西暦211年、崩御年が西暦248年、
 崇神天皇の生年が西暦251年、即位年が西暦295年、崩御年が西暦301年、
 神功皇后の生年が西暦321年、摂政元年が西暦363年、崩御年が西暦389年などと解明した。
 何度も修正を繰り返し、現在では次の図が最新になっています。今後も追加・修正は行います。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_2143620.jpg


 2世紀の終わり頃に「タウポ火山の噴火」により地球規模の気候異変が起き、中国では西暦184年に「黄巾の乱」が起こり、群雄割拠して国が衰えていった。やがて西暦220年に後漢が滅亡、三国時代に入っていく。   

 日本列島では、西暦180年代に「倭国乱」が発生、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)が失脚して淡路島に隠遁。倭国とは北部九州の28カ国のことです。
 西暦140年頃出生の素戔嗚尊が西暦200年頃に亡くなり、大国主命(西暦160年頃出生)が後を継いだ。
 しかし、西暦201年に卑弥呼が倭王に就任して倭国乱が終息、大国主命に北部九州の出雲族支配地を譲るよう強制。出雲族支配地は投馬国(福岡県東部と大分県)と邪馬台国(筑後川周辺)だと考えられる。
 高皇産霊尊(西暦140年頃出生)が大和国(奈良県)の国譲りも目論んで、磐余彦を大和国に派遣、211年に神武天皇として橿原で即位した。
 
 卑弥呼の後を継いだ臺與(235年頃-295年頃)は西暦266年、西晋に朝貢するが、中国の内乱と北方民族の侵入で朝貢貿易を続けられず、270年頃に列島統一(全国の国譲り)を目指して伊都国王の五十瓊殖(いにえ、10代崇神天皇)を伴って大和国に東遷したと考えられる。
 東遷の際、臺與は卑弥呼の遺骸を取り出して大和国に運び、巨大な前方後円墳である箸墓古墳(278m)を築造、西暦280年頃に完成した。
 臺與は卑弥呼を後円部に埋葬、膨大な石積みで盗掘を防いだ。これにより、弥生時代から古墳時代に入っていく。
 祭祀は、弥生時代に楚人の出雲族が中心になって400年間ほど続いた銅鐸祭祀が消滅し、八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉の「三種の神器」で祭祀が行われるようになった。
 臺與は西暦295年頃に自らも箸墓古墳の前方部に埋葬されたと考えられる。
 崇神天皇は295年に即位し、物部氏と結託して全国制覇を目指すことになる。

 巨大な箸墓古墳が築造されてから100年も経たない西暦363年に、神功皇后は新羅に出兵する。これは国内が概ね鎮圧でき、「国譲り」が完成、国家の経済にも余裕が出てきたことを物語っている。
***
 私的な話ですが、私は75才になるので認知機能検査を受けて合格し、次に高齢者講習を受けて、自動車運転免許証の更新をしました。
 去年の年末に車を買い替えたのですが、娘が「74才で車を買う父」と言っていました。あと10年くらい安全運転で元気に乗れたらいいなと思っています。
Innami Kanki
[PR]
by enki-eden | 2018-08-22 21:48

素戔嗚(すさのお)と楚(そ)

 中国戦国時代の楚の最後の王は「熊負芻(ゆう ふすう)」で、BC265年頃出生、BC223年没。
楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)、楚の最後の王は負芻(ふすう、fuchu)で、秦(BC221年-BC206年)に滅ぼされた。
 秦の人質になっていた昌平君が楚を建て直そうとして秦に背いたが、BC223年に戦死した。

 その秦が反秦連合によりBC206年に滅亡すると、西楚の項羽(こうう、BC232年-BC202年)と漢王の劉邦(りゅうほう、BC256年-BC195年)が楚漢戦争(BC206年からBC202年)で戦う。
 劉邦が勝利し、長安を都とする前漢時代(BC206年-AD8年)に入る。項羽と劉邦はどちらも同じ楚人だと考えられる。
 劉邦が中国を統一したので、本拠地としていた中国西方の「漢中(陝西省南西部)」が中国全体を表わす言葉の「漢」になっていく。漢民族、漢語、漢文、漢字、漢詩、漢土、漢方薬など。

 素戔嗚(布都斯、ふつし、西暦140年頃出生)の父・布都(ふつ)は、楚の最後の王・熊負芻(ゆう ふすう)の名を借用したのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
 素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記され、楚王の(ゆう)氏に因んでいるのか。

 地名・人名の熊本(隈本)、球磨川、熊襲、隈(筑紫野市、日田市など)、熊毛郡(山口県、鹿児島県)、熊鰐(事代主)、羽白熊鷲(はじろくまわし)、千熊長彦(ちくまながひこ)などは楚と関係が深いのではないか。

 私は熊襲の「襲」は「楚」ではないかと考えています。葛城津彦、倭迹迹日百姫もそうではないだろうか。

 素戔嗚系・大国主系は民族的には楚人だと私は考えています。楚人は縄文時代にも日本列島に来て吉備国や有明海地方に住み着いた。
 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。
 出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が中心で、開口部を上にして埋められた。戦争の時に銅鐃の取っ手を持って槌(鎚)で叩き、味方を鼓舞し、敵を威嚇したのでしょう。
 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。
 山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。
 同じように列島では、出雲系が中心になって全国に広まった銅鐸が、結界として傾斜地に埋納された。銅鐸の原型は銅鐃でしょう。2016年7月21日投稿の「銅鐸と銅鐃」をご参照ください。
 
 遺伝子調査は対象人数によって数値が変わるので確定的ではないが、日本人は世界でも少ない「Y遺伝子D系統」を36%ほど持っており、同系統は他にチベット人と一部の西アジア人しかいない。
 日本人にはD系統以外にC系統が6.6%ほどあり、D系統とC系統の42.6%が縄文系である。現在のアイヌ人はD系統を85%ほど持っている。琉球人はD系統とC系統を53.4%ほど持っている。

 日本人は東アジアに多いY遺伝子O系統を53.9%ほど持っている。
 O系統の内訳は、揚子江(長江)の呉系が32.1%ほど、越系が1.4%ほど、楚系が1.4%ほどになっており、これが弥生系である。圧倒的に呉系が多い。黄河系が19%ほどで、その内、漢族系が9%、漢族と交配した揚子江系が10%になっている。

 吉備地方のY遺伝子は日本全体の数値と大きく異なる。D系統は19%ほど、O系統が81%ほどで、縄文系が少ない。多くの縄文人が殺されたり、子孫を残せなかったか。
 O系統の中では、呉系が31%ほど、楚系が19%ほど、黄河系が31%ほどになっている。
 吉備国の地名由来に定説はないが、呉の国姓は姫(き)で楚の国姓は羋(び)なので、姫羋(きび)と呼んだのではないか。姫羋(きび)が吉備(きび)になったのではないかと考えています。
 2014年4月18日投稿の「楚辞」をご参照ください。   
Innami Kanki

[PR]
by enki-eden | 2018-08-15 17:34

弥生時代(やよいじだい)の始まり

 ウィキペディアによると、『弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
 採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。
 当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。』とある。

 歴博は最後に、『これまでの弥生文化と同じ名称で論を進めると著しい混乱を招くので、その混乱を回避するには,弥生文化の農耕の様態を縄文文化の農耕と区別したうえで,全体枠を生活文化史的経済史的視点から「農耕文化複合」ととらえ,その後に階層分化にもとづく政治的社会の形成(農耕社会の成立)を据える二段構えで弥生文化を理解すべきではないだろうか。』と云っている。歴博の「農耕文化複合と弥生文化」をご覧ください。
  
 この歴博の論法により弥生時代の始まりを紀元前10世紀とすることに、私は同調できません。「時代の転換」を決めるのは、政治・経済・社会が大きく変貌することであって、小規模の稲作が一部地域で確認できただけでは縄文時代の転換にはならないと考えています。
 日本列島での稲作は古くから確認されており、縄文時代にも江南人(揚子江周辺の倭人)が列島へ交易にやってきたり、住み着いたりして稲作も行われている。その渡来数は少なく、列島全体の縄文人の生活が大きく変わるわけではなかった。

 土器から検出されたイネのプラント・オパールの最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5,000年前)の事例があり、このほかにも縄文時代後期中葉(約4,000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
 岡山県南部の総社市南溝手遺跡では縄文時代後期後葉(約3,500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
 吉備地方と有明海地方が江南地方と気候風土が似ていて、江南人(倭人)には住みやすかったと考えられる。
 縄文人も江南に行っていたと考えられ、縄文土器(中国名は拍印縄紋陶)が大量に発見されている。

 およそ2,400年前、列島には、縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの多くの人々が戦争難民として逃亡してきた。揚子江(長江)周辺からやってきた倭人(呉人、越人)である。
 倭人によって、造船技術や水田稲作の技術、金属器の文化などが伝えられ、列島全体に拡がり、政治・経済・社会が大きく変貌、人々の生活は大きく変化して、弥生時代に入っていった。
 その後も大陸の戦乱を避けて、楚人や漢人なども加わり、長期的・波状的に渡来人が増えてきた。 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」をご参照ください。
  
 明治維新の300年以上も前からオランダ人、スペイン人、ポルトガル人などが日本に来て、貿易が進み、キリスト教の布教も行われ、蘭学を真剣に学び、日本人もヨーロッパへ行っている。
 しかし、これで日本全体の政治・経済・社会が大きく変貌したわけではなく、1868年の明治維新により江戸時代から明治時代に大転換した。

 同じように、縄文時代から江南人(倭人)が列島にやってきて、一部の地域で稲作も行われていたが、縄文時代から弥生時代への大転換は、紀元前5世紀に戦乱を原因とする倭人の渡来数が増え、列島全体に弥生文化が急速に広まったことを画期とするのは間違いない。これを機に列島には小国家群が成立して弥生時代に入っていった。
 これは、紀元前473年に呉王夫差が越王勾践により滅ぼされ、難民が四散していったことに始まる。その後、紀元前334年に越王無彊は楚の威王に敗れ、紀元前223年に楚王負芻(ふすう)は秦始皇帝に敗れることになる。列島には波状的に戦争難民が逃れて来た。

 江南人は漢民族に江南を追われ、一部は雲南やインドシナ半島に逃れ、また一部は海路日本へやって来た。縄文人は戦闘的ではなく優しくて、江南人にとって日本の気候も住み易く、急速に日本中に広がって行った。そして水田稲作以外に、高床式住居、千木、鰹木、竹馬、下駄、歌垣、鵜飼等をもたらした。
 また、租税を取ると云う仕組みや、国家創設や政治のシステムをもたらした。

 江南人は銅剣と銅鏡の二種の神器による祭祀をした。従って銅剣は幅広、銅鏡は大型であった。これが弥生時代・古墳時代に日本全体に広がっていく。
 卑弥呼が中国北部の魏からもらった銅鏡は小型であった。三種の神器の一つである八咫の鏡は祭祀用に作られた江南様式の鏡で、大きいのは46cm以上もある。(八咫の鏡とは大きな鏡と云う意味。)
Innami Kanki
[PR]
by enki-eden | 2018-08-09 09:53

稗田神社(ひえだじんじゃ、兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町鵤(いかるが)926   電079-276-0577
 祭神 稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)、素戔嗚命。

 旧祭神 豊受姫、素戔嗚命、猿田彦命、天鈿売命(あめのうずめのみこと)。

 古事記は40代天武天皇(622年-686年)の勅により、稗田阿礼が聞き覚え、太安万侶(723年没)が編纂し、和銅5年(712年)に43代元明天皇(660年-721年)に献上されたと云う。
 天鈿女命は猿女君の祖で、猿女君は代々「誦(しょう)と舞」により歴史を伝えてきた。天鈿女命の子孫である稗田阿礼の「誦」を太安万侶が筆録して古事記が編纂された。



 摂政の聖徳太子(574年-622年)が法華経・勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたので、その褒美として33代推古天皇(554年-628年)より播磨国揖保郡の地を賜った。
 聖徳太子は大和の斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺(法隆寺の東隣り)、片岡僧寺(片岡山放光寺、7代孝霊天皇陵の東)の三寺にこの地を分け与えた。佐勢の地(鵤荘、いかるがのしょう)五十万代の内と云われる。

 このため、当地鵤荘には各寺より、寺領の管理や調物微収のため、多くの吏員が大和から派遣された。その吏員の中に稗田氏がおり、祖神を奉祀する媛田神社(売田神社)を奉祀した。それを当地の人々が氏神として尊崇した。神社の説明によると610年頃に山地から平地に遷された。

 創建当時の祭神は稗田氏の祖神である天鈿女命と猿田彦命の二神であったが、後世になって天鈿女命の子孫である阿礼比売命(稗田阿礼)を奉祀することになる。天鈿女命は西暦185年頃の饒速日東遷に従い大和にやってきた。
 奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)稗田319に鎮座の賣太神社(めたじんじゃ)は希代の語り部・稗田阿礼を祀っており、稗田氏(猿女君)の居住地であった。



 稗田阿礼の性別は諸説あるが、稗田神社では女性としている。猿女君の「誦と舞」は主として女性によって演じられたので、稗田阿礼は女性と見るのが妥当でしょう。
 古事記の内容・表現方法も女性の立場からの世界観が垣間見える。

 神仏習合時代には、当社の南600mにある播州斑鳩寺(いかるがでら)の権勢に押されて稗田神社は勢いがなかったが、明治の神仏分離により、明治7年(1874年)村社に列せられ、後に郷社に昇格した。
 当社を上宮とし、播州斑鳩寺の境内に稗田神社の御旅所(下宮)がある。斑鳩寺は揖保郡太子町にある聖徳太子開基の寺院で、奈良の法隆寺の荘園「鵤荘」として法隆寺の経済を支えてきたが、現在は比叡山天台宗系の寺院になっている。

   神門と拝殿、
d0287413_9151460.jpg

d0287413_9152739.jpg

 拝殿と左右に大きな神木。
 拝殿前の柱には「神徳輝宇内」、「皇威洽四海」と刻まれている。(神徳により国内が明るく輝くように。皇威が世界に行き渡り、打ち解けあうように。)
 同じような言葉が各地の神社にあるが、福岡県糸島市芥屋3747に鎮座の綿積神社(綿積大神)の入り口鳥居前の注連柱にも「八紘一宇」、「皇威輝四海」と記されている。
d0287413_9155021.jpg

   本殿
d0287413_916854.jpg

 境内社に太神社(天照大日霊命、太安万呂命)と金刀比羅神社(豊受姫命、事代主命)がある。

 鵤(いかるが)の地名由来は、聖徳太子に因んで奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)だと考えられるが、鳥の名前に鵤(イカル)がある。イカルは角のように丈夫で太い黄色の嘴(くちばし)を持つ。昔、奈良の斑鳩にたくさんいたからイカルと名付けたと云う説がある。
©2012 Innami Kanki
[PR]
by enki-eden | 2018-08-01 09:18