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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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<   2019年 01月 ( 5 )   > この月の画像一覧

天平5年(733年)、45代聖武天皇(701年-756年)に奏上されたと云われる出雲国風土記に、伊差奈枳命(いざなぎのみこと)の子と記されているのは、熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと、素戔嗚命)と都久豆美命(つくつみのみこと)がいる。

出雲国風土記、嶋根郡千酌駅家(ちくみのうまや)の由来に、『伊差奈枳命の御子、都久豆美命が千酌(ちくみ)に坐すので、地名は「都久豆美」と云うべきものを、今の人はまだ「千酌」と名付けたままである』と記されている。

都久豆美命は千酌の守護神、氏神であった。

都久豆美又は都久津美の語源は「月津美(つきつみ)」で、「月の神」だと考えられる。

月の位置によって潮の干満が発生するので、「月の神」は潮の干満を支配する航海安全の神となった。また、月齢による太陰暦(陰暦、lunar calendar)も造られた。

都久豆美命と月読命(つくよみのみこと)は同じと云う説もあるが、どちらも同じ月の神で伊弉諾命の子であっても、私は別神だと思います。「ツクツミ」と「ツクヨミ」はよく似た神名ですがねぇ・・・

島根県松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌に爾佐神社(にさじんじゃ)が鎮座、日本海に面した千酌湾の西側に位置し、祭神は都久豆美神、伊邪那岐命、伊邪那美命で、社殿は東向き。月の出る東を向いているのか。

当社は旧・出雲国嶋根郡に鎮座の式内社で、「注連縄の向きが向かって左が元となっているのは出雲大社に倣ったと考えられる。   

千酌湾の東側には、美保関町北浦にある稲倉山(30m)の麓の伊奈頭美神社(いなづみじんじゃ)が東向きに鎮座、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたま)。

当社も拝殿の注連縄は向かって左が元となっている。

伊奈頭美神社の東に円錐形をしたランドマークの麻仁曽山(まにそやま、172m)があり、麓に伊奈阿氣神社(いなあきじんじゃ)が鎮座している。

以前は麻仁曽山の山頂に鎮座していたので、神社の神体山となっている。祭神は天御中主尊と事代主命。拝殿の注連縄は当社も向かって左が元となっている。

  赤が爾佐神社、黄が伊奈頭美神社、青が伊奈阿氣神社。


千酌湾沿いの三神社は、それぞれ目の前に漁港があるので、古代から渡航者や漁民が航海安全・豊漁を神社に祈願したのでしょう。

現在、隠岐の島に行く港は千酌の8km東にある七類港(しちるいこう)と鳥取県の境港(さかいみなと)であるが、古代には千酌港から隠岐の島に渡った。それで、千酌に駅家(うまや)が設けられ、交通の要所になっていた。


日本書紀の「国生み」では、伊弉諾命・伊弉冉命が国生みしたのはオノコロ島、淡路洲(あわじのしま)、大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま、大和)、伊予の二名洲(ふたなのしま、四国)、筑紫洲(つくしのしま、九州)、次に億岐洲(おきのしま)と佐度洲(さどのしま)・・・とあり、隠岐島はかなり早くから倭国勢力と結びついている。

素戔嗚命や大己貴命は日本海を島根半島沿いに東に渡航し、千酌に上陸、天気の回復を待って60kmほど離れた隠岐島へ渡航していったと考えられる。隠岐島は日本海交易ルートの重要な拠点であった。

素戔嗚命が千酌に来た時には、都久豆美命も一緒に航海したかもしれない。

稲倉山、伊奈頭美神社(稲積)、伊奈阿氣神社(稲開き)は農業の稲関連の名になっているが、本来は古代のイナ(鉄)ではないでしょうか。

海人族と踏鞴製鉄は密接に関連しており、「イナ(鉄)」が古代の地名・社名に使われ、「伊奈、伊那、猪名、衣奈、猪野、伊野、伊根、井根、稲」になっている場合が多い。

稲佐山(いなさやま)、猪名川(いながわ)、猪野川(いのがわ)、稲荷(いなり)神社、稲爪(いなづめ)神社など。

「イナ(鉄)」は踏鞴製鉄(たたらせいてつ)に関連するが、博多湾に注ぐ川に多々良川(たたらがわ)があり、踏鞴製鉄に関連する川だったと考えられる。

素戔嗚の踏鞴製鉄の作業・鉄穴ながし(かんなながし)が川下の農業などに悪影響を与えたことが、記紀の素戔嗚と天照大神の争いとして描かれたように思います。

多々良川の上流は猪野川(いのがわ)と呼ばれ、「多々良」も「猪野」も製鉄関連の名です。上流には伊野天照皇大神宮(祭神は天照大神)が鎮座する。(福岡県糟屋郡久山町猪野604

猪野川中流の久山町立山田小学校前に、神功皇后小山田邑斎宮伝承地がある。奴国の都は当地かもしれないが、もっと下流の香椎宮の辺りの方が相応しいか。防備の面から考えると小山田の方が安全だ。

古賀市小山田346にも小山田斎宮(おやまだいつきのみや)がある。

中世になり、農業の重要性が認識されるようになると、イナ(鉄)はイネ(稲)に変化して農業用語になっていった。出雲の千酌米も人気があるようだ。

出雲国風土記に記される50柱ほどの神々の中で「大神」と云われるのは、熊野大神(素戔嗚尊)、佐太大神(猿田彦命)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大穴持命)、野城大神の4神である。

印南神吉    メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2019-01-26 10:54
 古事記によると、伊邪那美命(いざなみのみこと)の尿(ゆまり)から弥都波能売神(みつはのめのかみ)と和久産巣日神(わくむすびのかみ)が生まれた。
 和久産巣日神の子が豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)で、亦の名を豊受大神、登由宇気神(とゆうけのかみ)、止与宇可乃売神(とようかのめのかみ)などと云われる女神である。

 豊受大御神は三重県伊勢市豊川町の伊勢神宮外宮(豊受大神宮、とゆけだいじんぐう)に奉祀されており、食物・穀物を司る女神である。
 止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう、804年)によると、21代雄略天皇(432年-479年)の夢に天照大神が現れ、「等由気大神(豊受大神)を御饌都神(みけつかみ)として連れて参れ」と云われたので、478年に雄略天皇は伊勢国に外宮を建てたと云う。
 そして、丹波国で海部氏が祀る「籠神社」(このじんじゃ)の奥宮である真名井神社から豊受大神を遷座し、度会氏(わたらいうじ)を神官とした。
      
 伊勢神宮内宮(皇大神宮)は既に、11代垂仁天皇(265年-310年)の時に三重県伊勢市宇治館町(うじたちちょう)に建てられていた。

 籠神社奥宮の真名井神社の背後にある磐座の石碑には「塩土老翁(しおつちのおじ)、大綿津見神、亦名住吉同体、亦名豊受大神」とあるので、豊受大神は女神ではなく男神となるが・・・
 籠神社の説明によると、「豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)・御饌津神(みけつかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘女神・豊受比売とも云います」とあるので、豊受大神は男神であるが、顕現する姿は女神になっていると云う。

 この顕現の仕方は、奈良時代から始まり1,200年以上続いた神仏習合の名残でしょう。明治時代に入ると、神仏分離令により神仏習合は禁止されたが、神仏習合の名残は現代にも散見される。

 伊勢神宮内宮は天照大御神を祀るので正殿は女神仕様で、千木は内削、鰹木は10本の偶数、豊受大神を祀る外宮の正殿は男神仕様で、千木は外削、鰹木は9本の奇数になっている。

 外宮の禰宜を世襲で務めてきた度会氏は天牟良雲命(あめのむらくものみこと)の末裔。天牟良雲命(170年頃出生)の孫が天日別命(あめのひわけのみこと)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の12世孫と云われており、年代は合うが・・・
 天牟良雲命(天村雲命)は天香語山命(155年頃出生、尾張氏の祖)の子で、天火明命(140年頃出生)の孫。天香語山命と天村雲命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って大和国にやってきた。
   
 三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は尾張国三宮の熱田神宮(あつたじんぐう、名古屋市熱田区)の神体であるが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも云う。
 この剣は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治した時に、大蛇の尾から出てきた霊剣で、天照大神に献上した。     

 天日別命は神武天皇(181年-248年)が大和国へ東遷してきた際に、伊勢国を平定し、伊勢国造の祖となった。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
by enki-eden | 2019-01-17 16:12

愛宕山の天狗

 京都市右京区の愛宕山(あたごやま、あたごさん、924m)山頂に愛宕神社が鎮座。祭神は伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命。
 愛宕山は山城国と丹波国の国境に位置し、嵐山(381.5m)の6.5km北西にある。愛宕神社は、全国で火伏せの神様を祀る約900社の総本社になっている。
 愛宕山は神戸の六甲山(932m)とほぼ同じ標高ですが、六甲山のように車では登れないので参拝は「登山」になり、私には無理です。私が生まれた昭和18年頃にはケーブルカーで行けたようですが、戦時中に撤去され今はありません。




 修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年)が愛宕山(朝日峰)に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)に遭い、神廟を設けた。
 49代光仁天皇(709年-782年)の勅を受けた和気清麻呂(733年-799年)が、唐の五台山に倣って、781年に愛宕権現白雲寺などの愛宕五坊を愛宕山に建立し、神仏習合の山岳修業霊場となった。

 56代清和天皇(850年-880年)は愛宕山南麓にある水尾山(484m)との関係が深く、水尾天皇とも云われる。清和天皇は水尾山陵に埋葬され、500mほど東の清和天皇社に祀られている。



 愛宕山の山岳信仰と修験道による愛宕権現(あたごごんげん)は、愛宕山白雲寺において伊弉冉尊(いざなみのみこと)と将軍地蔵を神仏習合により融合したものであった。
 将軍地蔵は武装した姿で軍馬にまたがっており、武家が戦勝を祈って信仰した地蔵菩薩。天正10年(1582年)、明智光秀(1528年-1582年)が織田信長(1534年-1582年)を討つ前に愛宕山に登ったと云う。 「ときは今 あめが下知る 五月かな」

 江戸時代には白雲寺から発祥した愛宕信仰が全国に広まっていったが、明治の神仏分離令により、愛宕権現も白雲寺も廃止され、愛宕神社に改められた。
 明治5年には修験禁止令も出された。

 1889年(明治22年)に就役した海軍の砲艦「愛宕」は愛宕山に因んで命名され、日清戦争・日露戦争などに参加したが、1904年(明治37年)に座礁により沈没した。
 2代目の重巡洋艦「愛宕」は1932年(昭和7年)に就役、多くの戦績を残したが、1944年(昭和19年)にアメリカの潜水艦の攻撃で沈没した。艦内神社はもちろん愛宕神社であった。
 同じく愛宕山に因んだ海上自衛隊のイージス型護衛艦「あたご」が2007年(平成19年)に就役した。艦内神社は愛宕神社で、お賽銭箱もある。
 弥生時代にも、舟や丸木舟には航路の安全を守るために船魂神(ふなだまのかみ)を祀っていた。この信仰は連綿と現代まで続いている。

 毎年8月16日の京都五山の送り火の時は、広沢池(京都市右京区嵯峨広沢町)の真西2kmの水尾山(曼茶羅山、まんだらやま)では鳥居の形に松明が点火される。



 付近には52代嵯峨天皇陵(842年崩御)と91代後宇多天皇陵(1324年崩御)がある。
 また、近くには祇王寺(ぎおうじ)もあり、50年前に訪れたことを思い出しました。祇王寺は紅葉の美しい尼寺で、平家物語に登場します。

 愛宕神社の若宮社には伊弉冉尊の生んだ迦遇槌尊(かぐつちのみこと)が祀られており、迦遇槌尊の化身を愛宕修験の愛宕太郎坊天狗とした。
 愛宕太郎坊天狗は多くの眷属を従える「日本一の大天狗」となった。

日本八天狗
 1、愛宕山太郎坊(京都市右京区)、天狗の総大将。
 2、比良山次郎坊(滋賀県大津市)、比叡山に居たが、比良山に移った。
 3、飯綱三郎天狗(いづなさぶろう)、白狐に乗る長野県飯綱山のカラス天狗。
 4、大峰山前鬼坊(おおみねぜんき、奈良県大峰山)、前鬼は役小角(役行者)の高弟で、
   妻の後鬼(ごき)と共に役小角に従った。
 5、鞍馬山僧正坊(そうじょうぼう、京都市左京区)、牛若丸に武術を教えた鞍馬天狗。
 6、白峯相模坊(香川県坂出市)、崇徳上皇が配流地の讃岐国で1164年に憤死した時に、
   崇徳上皇を慰めるために、相模国から讃岐国の白峯山へ飛び移った。
 7、相模大山伯耆坊(神奈川県伊勢原市)、伯耆大山から相模国へ飛んだ。
 8、英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう、福岡県田川郡)、高住神社(英彦山神宮の摂社)。
   天津日子忍骨命(天忍骨命)が天降ったもので、役小角がこの山で修行した時、
   それを祝福して出現した。
 
 日本書紀によると、
『34代舒明天皇9年春(637年)、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。人々は「流れ星の音である」と云い、あるいはまた「地雷(つちのいかづち)である」と云った。
 新漢人(いまきのあやひと)の僧旻(そうみん、653年没)は「流れ星ではない。これは天狗(あまつきつね)である。その吠える声が雷に似ているだけだ」と云った。』
とあるが、これが天狗の初見となった。

 このあと、役小角(役行者)が大和葛城山、大峰山、吉野山などで山岳修業を行い、全国の山を修業して修験道を開始、各地に天狗が現れたと云う。
 2013年5月8日投稿の「吉野水分神社と金峯山寺」をご参照ください。
   
 「猿田彦命」が天狗であると云う説も有力だ。神社の祭りの行列で先導しているのは猿田彦命で、天狗の面をかぶっている。   
 猿田彦命(2世紀後半)と天狗(7世紀から8世紀以降)が結び付けられたのは、修験道により天狗が出現して猿田彦命の風貌と似ていることが原因と考えられる。
 猿田彦命の風貌は日本書紀によると、「その鼻の長さ七握(ななつか)、背の高さ七尺あまり、口の端が明るく光っている。目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで照り輝いていることは赤ほうずきに似ている」とある。  
 猿田彦命の風貌からすると、古代に日本へやってきたフェニキア人かもしれない。2017年1月1日投稿の「日本人とフェニキア人」をご参照ください。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
by enki-eden | 2019-01-09 07:16

幸連5遺跡

 14,000年前から始まった縄文時代は、列島全体にほぼ均質な文化が広まり、広範囲の交易も行われていた。
 縄文人は、民族的にもY染色体ハプログループD2と云う世界でも数少ないDNAを特色としている。
列島全体に交易がおこなわれていたことは、考古学的出土物により証明される。

 津軽海峡に面した北海道上磯郡木古内町幸連(かみいそぐん きこないちょう こうれん)の「幸連5遺跡」は縄文時代前期から中期後半まで連続的に営まれていた。
 長期の遺構が複雑に絡み合って、100万点を超える遺物が発掘されている。
 竪穴住居跡から出土した4,300年前の石製品は、砂岩を正三角形の板状に削り、顔料で人の顔が描かれていた。三角形の一辺は12cmほどで、厚さは1.4cm、重さは218gあった。



 4,500年前の竪穴住居跡からの出土物には、長野県和田峠(1531m)で産出される黒曜石製の矢じり2点がある。和田峠と木古内町の直線距離は650kmも離れており、最も遠方での発見になった。和田峠産の黒曜石は透明感があり、元素の分析結果で判明した。

 和田峠周辺は縄文時代には黒曜石の産地で、石鏃に加工され交易品となった。筑摩山地の中央分水界にあり、峠の北側は千曲川から信濃川により日本海に通じ、峠の南側は諏訪湖から天龍川により太平洋に通じる。川と海の舟運により、ここから全国に流通していった。

 幸連遺跡の西にある木古内町札苅(さつかり)の札苅遺跡は縄文時代前期(6,000年前から5,000年前)から晩期の集落を代表する遺跡で、主に3,000年前から2,000年前の集落が多い。
 出土物に土偶があるが、高さ6cmから8cm、幅5cmの小型の板状のもので祭祀に使われた。
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by enki-eden | 2019-01-07 08:44
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 兵庫県北部の但馬国(たじまのくに)は、2世紀に出雲国の大己貴命(大国主命、160年頃出生)一族が開拓したが、次に天火明命(あめのほあかり、140年頃出生)一族がやってきて開拓した。
 3世紀半ばになると天日槍命(あめのひぼこ、230年頃出生)が新羅から但馬国にやってきて開拓したと云う。

 但馬国の歴史書に「国史文書 但馬故事記」がある。記紀以外は偽書とされることが多いが、但馬国の歴史を詳しく述べている。

 「国司文書 但馬故事記」の第5巻出石郡故事記によると、6代孝安天皇(229年頃-270年頃)の時代に(269年頃)、新羅の王子・天日槍命が帰化したとある。
 天日槍命は神武天皇(181年-248年)の兄・稲飯命(いなひのみこと、稲氷命)の5世孫であると出石郡故事記に記されている。
 「新撰姓氏録」(815年)にも「右京 皇別 新良貴 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男 是出於新良国 即為国主 稲飯命者 新羅国王者祖合 稲飯命之後也」とあり、稲飯命は新羅王の祖とある。

 稲飯命は弟の磐余彦(いわれひこ、神武天皇)の東征に従い、西暦204年に九州を出発して大和国を目指したが、紀伊水道で暴風に逢い漂流した。
 稲飯命は新羅にたどり着いて国王となったと云う。子孫の天日槍命は王子であったが、先祖の国を目指し、筑紫国(九州)→穴門国(下関)→針間国(播磨国)の宍粟(しそう)郡に留まった。
 天日槍命の希望により孝安天皇は多遅摩国(但馬国)を与え、多遅摩国造にした。天日槍命は出石県主の天太耳命(あめのふとみみ)の娘・麻多烏(またお)を妻にし、但馬諸助(たじまもろすく)を生む。

 天日槍命は但馬国一宮の「出石神社」に祀られており、子孫には神功皇后(321年-389年)がいる。 2013年8月19日投稿の「但馬国考古学」をご参照ください。
  
 私見ですが、天日槍命の出自は新羅ではなく、朝鮮半島南部の任那(みまな、伽耶)ではないかと考えています。当時の九州北部と朝鮮南部は、揚子江(長江)からやってきた呉人の小国家群が多く、当時は同一文化の交流地域だったと考えています。
 3世紀において新羅(斯盧国)は任那(伽耶)の北方にあり、高句麗と接していたが、8世紀の記紀成立の頃には任那の地は新羅になっていたので、記紀では天日槍命を新羅の王子と呼んだのではないか。

 任那(伽耶)も九州北部と同じ倭人の小国家群であった。任那の王族は北部九州の奴国王などと同族関係にあったと考えられる。
 実際に、斯蘆国初代国王となった赫居世は倭(奴国)の王族と繋がっていたようである。

 そして、天日槍命の子孫や帰化人が、自らの出自を皇族につなげるために、新羅の王となった稲飯命の子孫であると主張したのかもしれない。
 日本書紀には、神武天皇の兄の稲飯命と三毛入野命(みけいりのみこと)は紀伊水道で暴風に遭った時に海中に没し、常世国(とこよのくに)にいったと記されているが・・・
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
by enki-eden | 2019-01-01 00:10