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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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<   2019年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

先日のテレビ朝日の報道によると、

『世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見した。

アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長は、「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。それよりも1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。そういう意味ですごく価値がある。」と云う。

トルコ中部にある遺跡で一昨年(2017年)、日本の調査団が4200年前から4300年前の地層から世界で最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘した。これまでの定説では、3200年前から3300年前にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて、製造技術を独占し、周囲を征服したとされている。

しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、成分もこの地域の鉄鉱石とは違うことが分析で明らかになった。

鉄の塊が見つかった地層では古代中近東の様式とは違う木造建築物の遺構も見つかっていて、調査団は、これまで考えられていたよりも前にヒッタイトとは違う民族が鉄の製造を伝えた可能性もあるとみて注目している。』と報道された。

***

発見現場のトルコ共和国は、南を地中海、西をエーゲ海とマルマラ海、北を黒海に囲まれている。この地域は「小アジア」と呼ばれるが、「アナトリア」とも呼ばれている。東ローマ帝国時代にギリシャ語で「アナトリコン(日出る処)」と呼ばれたのが「アナトリア」の名称由来となった。「日出る処」は日本と一緒ですね。

トルコの中央部はアナトリア高原で標高は800mから1200m。日本の中国山地ほどの高さの高原で、閉鎖型盆地である。トルコ東部の山は高く、東端には「ノアの箱舟」で有名なアララト山(5137m)があり、トルコの最高峰である。

アナトリアは古代から文明が栄え、南部地方には9500年前~8300年前頃の世界最古の都市遺跡・チャタル・ヒュユクがあった。新石器時代から金石併用時代まで続く遺丘となっている。

4000年ほど前に、このアナトリアに突然現れたインド・ヨーロッパ系の最古とされる民族・ヒッタイトがハットゥシャシュ(ハットゥシャ)を王都として、鉄器を使用する一大帝国を築いた。

このヒッタイトが現れる前段階の、5000年前に先住民「ハッティ」がアナトリア半島中央部に居住していた。この民族はインド・ヨーロッパ系ではなく、周辺の言語とも違う独自の言語を話し、膠着語であった。メソポタミアのシュメール人との関連を調べる必要がある。シュメールもハッティと同じく4000年ほど前に滅亡した。

旧約聖書によると、4000年ほど前にアブラハムがシュメール(イラク)のウルからハラン(トルコ)に移り、更にカナン(イスラエル)に移動した。このアブラハムの移住は、私見ですがシュメールとハッティの滅亡と関係があると考えています。

ハッティ人は鉄を発明した民族で、これが人類の鉄使用の最初だと考えられる。

ヒッタイト人が4000年ほど前に北方からやってきて、アナトリアのクッシャラに定住し始め、3800年ほど前にクッシャラの王ピトハナと子のアニッタがアナトリア征服に取り掛かった。

ピトハナ王とアニッタ大王はアナトリアを征服して先住民「ハッティ」の鉄を独占し、ヒッタイトの文化として後世に伝えた。(粘土板のアニッタ文書による)

当時の鉄は金よりも貴重であった。

そのヒッタイトも3200年ほど前に滅亡する。

トルコの首都アンカラの東方約150kmにボアズキョイという小村があり、南西の丘上に全長4kmに及ぶ城壁跡や獅子の石像が守る巨大な城門などが確認されている。

1906年、ドイツの考古学者フーゴー・ヴィンクラー(1863-1913年)がボアズキョイ発掘調査を行い、楔形文字が刻まれた大小1万片の粘土板文書の大書庫を発見した。そこでヴィンクラーは、このボアズキョイこそ、ヒッタイトが創り上げた王都ハットゥシャシュであるとし、4000年前のアナトリアの歴史が明らかになった。

この粘土板文書は「ボアズキョイ文書」と呼ばれ、このボアズキョイ遺跡は1986年に世界遺産登録された。ヒッタイトの滅亡により製鉄法が公開され、古代オリエントは青銅器時代から鉄器時代へと移っていく。

赤のアイコンがボアズキョイ


ヒッタイトの滅亡により製鉄法が各地に拡がっていったが、この製鉄法は直接製鉄法(塊錬鉄製鉄法)と云って踏鞴製鉄の一種で、比較的低温(800℃位か)で鉄塊を製造し、鉄塊を再度加熱製錬・鍛造(ハンマーで叩く)する方法であった。この製鉄法は日本にはオリエントから南周りでインドから江南(揚子江周辺地)経由で伝わった。江南は青銅器文化が盛んであったが踏鞴製鉄も行われていた。20181030日投稿の「金糞(かなくそ)」をご参照ください。

    

日本の古代における「踏鞴製鉄」はこの直接製鉄法で、江南人(倭人)の渡来により弥生時代の始まりとなる。弥生時代の初期から水田稲作が行われ、青銅器と鉄器が同時に製作された。

弥生時代の支配者は製鉄族で、記紀に記されている素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)がその最高位にあった。製鉄族は配下に手工業の職人、海人族、稲作農民などを置き、海外や列島における交易により利益を得ていた。武器製造や軍事面にも力を入れて、地域同士を結び付ける同盟関係や服従関係により列島全体の支配を強めた。

オリエントから中央アジアを通り、華北の中国にも製鉄法が伝わってきた。当初は中国も直接製鉄法で製鉄していたが、製陶技術により1200℃以上の高温を出すことができていたので、鉄鉱石を高温で加熱・溶融して銑鉄を製造、再度加熱溶融して炭素を除いて鋼を造る溶融銑鉄製鉄法(間接製鉄法)が紀元前2世紀の前漢時代に完成した。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-03-30 09:03

嵯峨天皇と素戔嗚

西暦810年(大同5年)の正月、52代嵯峨天皇(786年-842年)は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、愛知県津島市神明町1「津島神社」に「日本総社」の号を奉られた。   

織田信長(1534年-1582年)も津島神社を崇敬していた。織田家の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋である。

津島神社(祭神・建速須佐之男命)は全国に3,000社ある津島神社・天王社の総本社になっている。祇園信仰の一つとして津島信仰・天王信仰と云われ、神仏習合時には津島牛頭天王社と称し、牛頭天王(素戔嗚尊)を祭神としていた。

津島神社の社伝によると、素戔嗚命が朝鮮半島から帰ってきた時に荒魂は出雲国に鎮まり、和魂(にぎみたま)は7代孝霊天皇45年(3世紀後半)に一旦対馬に鎮まった後、29代欽明天皇元年(540年)に現在地近くに移り鎮まった。

810年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られた。


記紀には、素戔嗚命(140年頃-200年頃)が猛々しい暴れ者として描かれている。これは、663年の「白村江の戦」により、日本軍が唐・新羅連合軍に敗れ、百済の再興に失敗、1万名もの戦死者を出したことによる。

古事記は712年の成立、日本書紀は720年の成立だから、白村江の戦から50年余りしか経っていない。新羅と強いつながりを持つと云われる素戔嗚命に対する反感が非常に高い時期に記紀が編纂された。

しかし、それから90年ほどが過ぎて、嵯峨天皇は歴史を冷静に見直し、素戔嗚命の名誉回復を図った。

尤も、一般庶民にとっては白村江の戦と素戔嗚命を結び付ける考え方など全くなく、相変わらず昔からと同じように素戔嗚命の人気は高く、全国の神社で祀られ崇敬されていた。

嵯峨天皇は50代桓武天皇(736年-806年)の第2皇子で、第1皇子が51代平城天皇(へいぜいてんのう、774年-824年)となった。平城天皇と嵯峨天皇の母は、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)。

809年に平城天皇が上皇となり、嵯峨天皇が即位した。しかし、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の関係は不穏な状態で、嵯峨天皇と平城上皇が対立し、「薬子の変(くすこのへん)」なども起きた。

薬子の変は坂上田村麻呂に鎮圧させたが、嵯峨天皇は情報漏洩の反省として、巨勢野足(こせののたり、749年-817年)や藤原冬嗣(ふじはらのふゆつぐ、775年-826年)らを採用し、蔵人頭(くろうどのとう)を設置して機密を守った。

更に、都の治安を守るために検非違使(けびいし)を設置した。

嵯峨天皇は、干ばつなどによる財政難や、皇族が増えすぎて官職に就けない皇族が多くなったことにより、皇族の人数を減らすための臣籍降下(しんせきこうか)を行った。

皇位継承の可能性がない皇族に姓を与えて臣籍降下させることは皇親賜姓(こうしんしせい)と云って、桓武天皇も100名ほどを対象に実施した。

更に、出家させることにより、皇族を減らす方法も取られた。

これは、皇位継承者を安定的に確保するために、多くの妃に皇子・皇女を産ませた結果でもある。現在の皇室が抱える皇族減少問題とは全く逆の現象になっていた。

第二次世界大戦後、皇籍離脱が行われたが、GHQによる皇室財産没収と共に、皇室弱体化が狙いであった。GHQが日本を支配するための新憲法もそのまま現在まで機能し続けている。

平安時代に皇親賜姓をした元皇族は、地方の武士や豪族になるのが通常であった。

「源氏」は嵯峨天皇が814年に皇子3名に皇親賜姓を行ったことに始まる。一番有名なのは56代清和天皇の清和源氏でしょうか。源頼朝(1147年-1199年)の時代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開いた。その他、59代宇多天皇の宇多源氏、62代村上天皇の村上源氏なども出現し、21の流派ができた。

「平氏」は50代桓武天皇の桓武平氏、54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の仁明平氏、55代文徳天皇(もんとくてんのう)の文徳平氏、58代光孝天皇(こうこうてんのう)の光孝平氏がある。

桓武平氏の嫡流である伊勢平氏の平清盛(1118年-1181年)が棟梁となり、日本初の武家政権を樹立した。

古代史研究でよく参考にされる「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」は嵯峨天皇が編纂を命じた氏族名鑑である。

嵯峨天皇は823年に53代淳和天皇(じゅんなてんのう、786年-840年、桓武天皇の第7皇子)に譲位し、上皇になってからも権威を発揮して、政治的な安定を図った。

淳和天皇の母は桓武天皇夫人の藤原旅子(758年-788年)で、平城天皇・嵯峨天皇は異母兄となる。

嵯峨天皇の信頼を得ていた空海(774年-835年)が、離宮の嵯峨院(京都御所の8km西)に五大明王を安置した。876年に淳和天皇の皇后が離宮を寺に改め、大覚寺(真言宗大覚寺派の本山)とした。淳和天皇の皇后は嵯峨天皇皇女の正子内親王(810年-879年)である。

大覚寺の西北650mの右京区北嵯峨朝原山町に円丘の嵯峨天皇御陵がある。

京都市右京区嵯峨朝日町23に鎮座の車折神社(くるまざきじんじゃ)は、嵯峨天皇と関係が深く、清原頼業(1189年没)が祭神で、境内社の芸能神社には天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2019-03-21 09:06

奴国は弥生末期の中心地

古代の長江(揚子江)流域の民は「江南人」、或いは「倭人」とも呼ばれ、呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を長江の下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)を建国した。

江南人(倭人)は稲作、船舶による漁労・交易(南船北馬)、青銅器文明で栄えたが、呉と越の戦争(BC473年)、楚と越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、紀元前5世紀から紀元前2世紀の間に長期波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に避難・逃亡してきた。

これにより、14,000年前から始まった縄文時代が2,400年ほど前に終わり、弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となり、列島全体に弥生文化が広まっていった。

江南人(倭人)が日本列島にやってきたので住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

江南人の中でも呉人の渡来数が最も多く、北部九州と朝鮮南部に多くの小国家群を建てた。その中で博多湾周辺の「奴国」が中心的な役割を果たしていった。

晋書、梁書などに『倭は自ら「呉の太伯の後」という』とあるので、呉系の弥生人は呉から日本列島にやってきた倭人であると認識していた。

呉人が中心となって北部九州に建国した小国家群(倭国)の中の「奴国」が伝承する紀元前1世紀から紀元3世紀の歴史が、記紀の「神代の物語」として古代人の表現方法により記された。但し、列島では素戔嗚命や大国主命の出雲族の勢力が大きく、支配地も列島全体に拡がっていた。

私見ですが、素戔嗚命や大国主命の出自は「楚」であると考えています。楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)です。

紀元前1世紀の北部九州はまだ充分なまとまりがなかったが、既にクニとしての萌芽はできていた。その頃の王として記紀に記されたのが、別天神(ことあまつかみ)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)の五柱の神である。

紀元前1世紀の博多湾周辺には板付遺跡(いたつけいせき、)があり、縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥を裏付ける遺跡である。環濠集落、水田跡、墓地などが発掘されている。

また、博多湾は大陸に向かう天然の良港という地の利により、海人族の安曇氏を中心として交易により発展した先進地域であったので、奴国は小国家群(倭国)のリーダーとなっていった。そして、奴国の北部は海、東部・南部・西部は山に囲まれ、天然の軍事要塞としても恵まれていた。


紀元前1世紀には、列島各地の海人族は前漢(BC206年-AD8年)と交易をしていた。交易をするためには、各地の豪族は通訳と漢字を書ける役人を必要とした。文字は木簡か竹簡に筆で書いた。前漢の出先機関は楽浪郡(BC108年-AD313年)にあったので、各豪族は漢語と漢字を習う研修生を楽浪郡に派遣していた。

紀元前1世紀の日本の遺跡からは硯石の破片が出土する。福岡県糸島市の閏地頭給遺跡(うるうじとうきゅういせき)、三雲・井原遺跡(みくもいわらいせき)、佐賀県唐津市の中原遺跡(なかばるいせき)、福岡県筑前町の薬師ノ上遺跡、島根県松江市の田和山遺跡などから硯石の破片が出土している。その他、日田市などからも出土している。

紀元1世紀になると、奴国はクニとしての機能を整え、初代奴国王は国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦元年出生)が就任する。国常立尊は別天神の子孫と考えられ、西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」金印を受け、「大陸との交易」に関しては奴国が倭国を代表するようになった。

2代目奴国王は豊雲野尊(西暦20年頃出生)、3代目奴国王は宇比地邇尊(ういぢにのみこと、西暦40年頃出生)、4代目奴国王は角杙尊(つぬくいのみこと、西暦60年頃出生)で西暦107年に後漢に朝貢し、倭王帥升となり交易面に加えて政治的にも奴国王が倭国を代表するようになった。

5代目奴国王兼倭王は意富斗能地尊(おおとのぢのみこと、西暦80年頃出生)、6代目奴国王兼倭王は淤母陀流尊(おもだるのみこと、西暦100年頃出生)、そして7代目奴国王兼倭王が伊弉諾命(いざなぎのみこと、西暦125年頃出生)である。

福岡平野には博多湾に注ぐ那珂川と御笠川があり、川の間の地域の中流域から下流域にかけては、段丘が形成されている。

段丘の北には海岸沿いに砂地があり、博多遺跡群がある。2本の川の間の段丘には比恵遺跡群(博多駅の南)、那珂遺跡群(比恵遺跡の南)、板付遺跡(福岡空港南)、諸岡遺跡群(板付遺跡の南)、須玖岡本遺跡(春日市岡本、奴国の中心)ほか多くの遺跡が発掘されている。

いずれの遺跡も福岡平野の中で大きな役割を担ってきた地域で、現在は福岡市、春日市、大野城市にまたがっている。

板付遺跡は縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥の地で、奴国の重要な拠点であった。

1899年(明治32)、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)は、前漢鏡30面のほか多数の副葬品があり、奴国王墓ではないかと云われている。

弥生時代終末期の西暦180年代に倭国29ヶ国が争っていたが、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊が倭国乱の責任を取り淡路島に隠遁、西暦201年に卑弥呼(179年-247年)が女王として就任し、238年に魏に朝貢、親魏倭王となった。倭国乱については、「三国志とタウポ火山の噴火」をご参照ください。 

楽浪郡は後漢末期に公孫氏が支配し、帯方郡を設置したので、倭人は後漢(西暦25-220年)やその後の魏(220-265年)と直接交易できなかった。しかし、魏が238年に楽浪郡・帯方郡を接収すると、倭の女王卑弥呼は「直ちに」魏と交易し、親魏倭王となった。これは楽浪郡や帯方郡に倭人の役人(研修生)が常駐していたから、公孫氏滅亡を報告してきたことによる。

公孫氏の末裔は列島に逃れ、常世連(とこよのむらじ)となった。

博多湾の海浜砂丘は箱崎砂層(はこざきさそう)と呼ばれる堆積層が基盤となって、弓状の砂丘が形成された。

弥生時代には砂丘に墓地が営まれるようになる。弥生時代前期は木棺や甕(かめ)棺で埋葬し、副葬品をもつ甕棺も発掘されている。

弥生前期後半から中期になると砂丘上にも集落が形成されるようになる。

奴国の支配者層は安曇氏を中心とする海人族で、船団による内外との交易・同盟、漁労、金属製品製造、農民に対する課税・課役などを行った。海人族の拠点は福岡市東区だったと考えられ、志賀島が海人族の聖地であった。

志賀島からは「漢委奴国王」金印も出土している。1世紀から3世紀にかけて存在したとされる「高天原」も東区のどこかにあったと考えられる。

高天原は志賀島にあったのか、或いは香椎宮後方の山裾にあったのか、もっと山間部に入った糟屋郡久山町(かすやぐん ひさやままち)だったのか。

私見ですが、天照大神としての卑弥呼と臺與は奴国王兼倭王で、高天原は奴国王の宮と倭王の宮の両方にあったと見ています。

奴国王の宮は博多湾に近い山沿い地域(福岡市東区)、倭王の宮は福岡県朝倉郡筑前町から朝倉市の山沿いではないでしょうか。小石原川が「天の安川(夜須川)」でしょう。

小石原川と佐田川の間には国史跡の平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)があり、紀元前1世紀(弥生時代中期)から4世紀(古墳時代)の集落跡です。私は筑後川流域の筑紫平野が魏志倭人伝の云う邪馬台国だと考えています。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2019-03-13 10:18

兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地  電0797-86-6641  無料駐車場あります。

火の神、かまど(台所)の神で、清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)の鎮守社となっている。

  

「清荒神清澄寺」は真言三宝宗の大本山で、本尊は大日如来(国の重要文化財)。

896年に59代宇多天皇(867-931年)が、鎮護国家・万民豊楽のための勅願寺のひとつとして創建された。神仏習合になっているが、明治以降も「寺院」として継続している。

清荒神の天堂(拝殿)後方に「荒神影向(ようごう)の榊(さかき)」があり、開創の際、荒神が顕現したと伝えられる。この報告を受けた宇多天皇は「日本第一清荒神」の称号を与えた。

清荒神は、「家内安全」、「厄除開運」、「商売繁盛」のご利益で年間の参拝者は350万人に上る。私も31日に参拝し、古いお札を納め、新しいお札を頂きました。

毎月1日と28日の午前10時に太鼓の大きな音が「ドーン」と1回響き、天堂(拝殿)でご祈祷が始まる。

私が10時前に天堂(拝殿)に着くと、太鼓の大きな音と共に僧侶が7人並び、ご祈祷が始まった。今まで聴いたことのないとても感動的なご祈祷でした。荒神様の魂と迫力を感じました。お寺なので祝詞(のりと)ではなく読経です。

ご祈祷の時間帯と参拝の日時がうまく重なって、心が洗われ、感激し、ラッキーでした。

清荒神王ご朱印

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山門、石柱に「日本第一 清三宝大荒神王」と彫られている。

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   境内案内図、参拝経路も記されている。

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鳥居の手前右に護牛神堂(牛頭天王安置)と弘法大師の行脚像。

 

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鳥居と天堂(拝殿)

 

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天堂(拝殿)、一礼三拍手一礼。 三宝荒神王だから三拍手。

 

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   天堂後方に護法堂(本社)、

大勝金剛転輪王、歓喜童子、弁財天を安置。

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護法堂後方に荒神影向(ようごう)の榊

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天堂の右に岸壁をくり抜いた「行者洞」があり、修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年頃)を祀っている。

1799年に119代光格天皇(1771年-1840年)が、役小角没後1100年によせて神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)の諡(おくりな)を賜った。

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天堂右の石段を登ると途中の山腹に宝稲荷社(宝稲荷大明神)が鎮座、

明治時代に当山和上二人が同時に稲荷明神の霊夢を見たのでお祀りした。

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清荒神清澄寺本堂(大日如来、不動明王、弘法大師)と、手前の一願地蔵尊(水かけ地蔵)。

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本堂右奥に龍王滝、よく見ると滝の左の平らな所に不動明王の石像をお祀りしている。

不動明王が右手に剣を持っているのが見える。

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修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)は役行者(えんのぎょうじゃ)とも云われるが、大和の金剛山(1125m)で祈っていると「荒神」が初めて現れたと云う。荒神の姿は宝冠をつけ、腕が六本あった。

それで荒神様の像には三面六臂(さんめんろっぴ、顔が三つで腕が六本)が多い。奈良興福寺の国宝・「阿修羅像」は荒神ではないが、三面六臂になっている。

 

荒神は、悪人を懲らしめる神であるので「荒神」と呼ばれ、不浄を排除するので「火の神」・「かまどの神」とされている。神道の荒御魂(あらみたま)と共通する面がある。

関西で有名な荒神社は、清荒神、奈良県桜井市笠の笠山荒神社、奈良県吉野郡野迫川村の立里荒神社(たてりこうじんしゃ、高野山の奥社)、大阪府箕面市勝尾寺の勝尾寺、和歌山県橋本市神野々の光三宝荒神社などです。

荒神社の月次祭は毎月28日に執り行われるところが多い。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2019-03-07 09:17

兵庫県神戸市長田区駒ケ林町3丁目7-3  電078-611-4065

無料駐車場は、石の注連鳥居の手前を右に曲がる。

祭神 応神天皇、猿田彦大神、奇稲田姫命。

別称は駒ヶ林八幡宮で、厄除けの宮。

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毎年118日から20日までの厄除大祭は大いに賑わう。

当社は伊勢神宮で用いられた「丸三方」を所有しており、大事なお祭りの際に用いている。三方(さんぼう)は、四角形の台の三方向に眼象(げんじょう)と呼ばれる穴があいているので「三方」と呼ばれる。一般的には四角形の三方が多いが、丸三方、板足三方、長三方などもある。

丸三方には眼象が開いていない。

古代には、当社の前の海は要津(ようしん、重要な港)になっており、1178年に平清盛(1118-1181年)が上陸したとの記録が残っている。現在は長田漁港となっている。

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平安時代にこの港に来朝する外国人を検問する玄蕃寮(げんばりょう)の出先機関があり、災いが入らないように取り締まっていた。「玄」は僧侶、「蕃」は外国人で賓客のこと。

その役所内に「厄除けの宮」として当社が創建された。

1336年、足利尊氏(1305-1358年)が西国敗走の時、当社に奉詣して社前の浜より乗船したという。

1924年に社殿を修築し、若宮社と村内の小祠を合祀し、社名を「八王子八幡神社」から「駒林神社」と改称した。

長田漁港前の赤い大鳥居、

鳥居の右前に駒ヶ林が「いかなごのくぎ煮」発祥の地である事を記した石碑がある。

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  拝殿、注連鳥居の手前右に駐車場がある。

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  本殿

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本殿右に、天光玉勝稲荷神社と奥に神明鳥居の神明社(天照大御神)。

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  本殿左に三宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ、かまどの神様)、

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 荒神社の多い県は、多い順に岡山県、広島県、島根県、兵庫県である。

「三宝荒神」は仏教系であるが、「荒神さん」は複雑で、由来は多岐にわたり、日本での拡がりが瀬戸内地方と島根県を中心としていること、火の神・かまどの神・災難や不浄を除去する神であることを考えると、「素戔嗚尊(楚人)」や古代中国の「楚」との関連が考えられる。

中国神話の「炎帝(えんてい)」、「祝融(しゅくゆう)」と関係があるかもしれない。楚の王は祝融を祖先とする。

楚辞の言葉づかいについては、2014418日投稿の「楚辞」をご参照ください。


荒神信仰は修験道の役小角(えんのおづぬ)とも関係が深く、山岳信仰・密教・神道など様々な要素を含み、日本の民間信仰の中で拡がっていった。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2019-03-01 16:41