人気ブログランキング |

古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
画像一覧
更新通知を受け取る
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2019年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

難升米(なしめ)

陳寿(233年-297年)は三国時代の蜀(221年-263年)の官僚となり、蜀が滅亡した後は西晋(280年-316年)に仕え、297年に「三国志」を編纂した。

陳寿の生きた時代に倭国では臺與(とよ235年頃-295年頃)が卑弥呼(179年-247年)の後継として、248年に女王となった。

陳寿が西晋で左遷の辞令を受けた時に、陳寿を検察秘書官に推薦して助けたのは武将の杜預(とよ222年-285年)であった。

陳寿の魏志倭人伝(三国志 魏書東夷伝倭人条)によると、卑弥呼は景初2年(238年)に魏の2代目の皇帝である明帝(曹叡、204年-239年)に使者を送り、「親魏倭王」となった。

卑弥呼の使者は大夫の難升米と次使の都市牛利で、生口(奴隷)10人と班布(はんぷ、麻布)22丈を献じた。22丈とは、長さ2丈(4.7m)の麻布を2匹(4反)。

明帝は卑弥呼に金印紫綬を授け、銅鏡100枚など莫大な品を与えた。難升米を率善中郎将に任じ、都市牛利を率善校尉に任じ、銀印青綬を授けた。

239年に明帝が34才で崩御し、曹芳(231年-274年)が8才で3代目の皇帝となった。

正始元年(240年)に帯方郡太守の弓遵が倭国に使者を送り、皇帝の詔書と印綬を渡した。

正始4年(243年)に皇帝の曹芳は元服し、卑弥呼は大夫の伊聲耆、掖邪狗を使者として魏の洛陽に送り、生口や布を献じた。皇帝の曹芳は使者を率善中郎将とした。

正始8年(247年)に卑弥呼は載斯・烏越らを使者として魏に派遣。倭国と狗奴国の紛争解決のために帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されてきた。張政は皇帝の詔書と黃幢を難升米に渡した。

247年に卑弥呼が亡くなり、男王が立つが争いとなり千人ほどが死んだ。卑弥呼の一族の臺與が女王になり争いは収まった。

張政は臺與を諭し、臺與は魏に20人の使者を送り、生口30人、白珠(真珠)5000孔、青大句珠(ヒスイの勾玉)2枚、雑錦20匹を献じた。

魏と交渉をした難升米は一般的には「ナシメ」と云われているが、2世紀・3世紀当時の豪族の呼び方を考慮すると、難は奴国のこと、升米は斗米(斗目、とめ)ではないでしょうか。はかりの単位の升と斗を間違えたように感じます。

日本書紀の「神功皇后39年」には、「大夫難斗米」と記されている。

図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

d0287413_09195001.jpg

嘉平元年(249年)に、魏の将軍・司馬懿(しばい、179年-251年)がクーデターで皇帝一族を暗殺、国の実権を握った。卑弥呼は司馬懿と同じ179年に生まれ、同時代を生きた。

魏が265年に滅び、司馬懿の孫である司馬炎(236年-290年)が西晋を起こし、武帝として全土を統一、洛陽を都とする。泰始2年(266年)に臺與は西晋の武帝(司馬炎)に朝貢した。司馬炎も臺與と同じ時代を生きた。

西晋が全土を統一したが、内乱が頻発し、北方異民族の侵入により、国中の動揺が続いた。朝鮮半島も反乱が続いた。そのために倭国は大陸と交易ができなくなった。

私見ですが、大陸との交易ができなくなった倭王の臺與は列島全土を統一するために、本拠地を九州から大和国(奈良県)に遷し、西暦270年頃に大王家(天皇家)に籍を入れた。270年頃の大王(天皇)は7代孝霊天皇であった。皇女とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は臺與のことかもしれない。三輪山(467m)の大物主大神の妃になる。

臺與は九州から東遷する時に、卑弥呼の遺骸を運び、纏向(まきむく)に前方後円墳の築造を始め、280年頃に箸墓古墳が完成した。卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬し、自らは295年頃に亡くなり前方部に埋葬された。これで弥生時代から古墳時代に入っていく。

臺與は東遷する時に、伊都国王のイニエ(五十瓊殖、251-301年)も伴った。イニエは大和国で10代崇神天皇となり、全国支配を開始した。

210年頃出生の難升米も年老いていたが東遷に従い、黒塚古墳に埋葬されたのではないかと考えています。伝崇神天皇陵の西向かいにあります。20121225日投稿の「黒塚古墳」をご参照ください。  

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-05-30 09:24

兵庫県宍粟市(しそうし)山崎町与位129   無料駐車場あります。

祭神 主神 素戔嗚命(すさのおのみこと)、

    配神 稲田姫命(いなだひめのみこと)。

播磨国宍粟郡に鎮座の式内與比神社。

当社は延喜式(927年)にも記されているので、創建はそれよりも古く4世紀末頃か。

当地の宍粟郡は播磨国の中で最も面積が大きかった。


 

素戔嗚命の実名は布都斯(ふつし)で、父は布都と云う。

2018102日投稿の「布都(ふつ)」2016317日投稿の「素戔嗚の系図」をご参照ください。投稿してから3年が経過しましたので、最近の私見とは違う部分もあります。

素戔嗚命は、出雲国風土記には櫛御氣奴命(くしみけぬのみこと)、熊野加武呂命(くまのかむろのみこと)などと記されている。

稲田姫命は素戔嗚命の妃で、奇稲田姫命、櫛名田比売(くしなだひめ)とも云う。出雲国風土記には久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめのみこと)と記されている。

與位神社の由緒によると、伊和大神(大国主命)が国土経営をなされた時、父の素戔嗚命を與位大神として與位山の地に奉斎し、母の稲田姫命を子勝大神として丸山の地に奉斎したのが始まりと云う。

明治42年(1909年)に、與位神社の北にある丸山に鎮座していた子勝神社を合祀した。

與位神社は伊和神社の境外末社の時期があった。

18世紀に編纂された播磨鑑(はりまかがみ)に、

八乙女の 鈴やふりつつ 祈るにぞ 神も願を よるの夢みせ

と記されており、現在でも八名の氏子の子女が巫女として10月の大祭に奉仕している。

両部鳥居と社号標。

d0287413_22411179.jpg

参道を進むと杉の巨木が並び、拝殿が見えてくる。

 

d0287413_22414965.jpg

拝殿前にも大杉のご神木、

注連柱には「天壌」「無窮」(天地とともに永遠に続く)と彫られている。

 

d0287413_22420977.jpg

 

d0287413_22422849.jpg

    拝殿右にライオンが。

 

d0287413_22424831.jpg

流れ造りの本殿

d0287413_22430395.jpg

拝殿左に境内社の大歳神社、祭神は猿田彦命と「大年神」

子勝神社境内の佐田神社であったが、子勝神社と共に当地に遷座した。

d0287413_22441342.jpg

 

大年神は、素戔嗚尊(140年-200年頃)の第5子である饒速日命(165年頃-225年頃)の別名ではないかと考えています。

大年神のもう一つの別名は布留(ふる)。母は「大山祇神(おおやまづみのかみ)」の娘である神大市姫。  

大年神の妹に宇迦之御魂(お稲荷さん)がいる。

大年神社は兵庫県では非常に多く、400社近くもあり、篤く信仰されている。

大年神の妃の天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の子は大山咋命など10名、

妃の伊怒比売(いのひめ、出雲)の子が5名、

妃の香用比売(かぐよひめ、かよひめ)の子が2名いる。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-05-23 22:47

縄文土器

兵庫県で発見されている縄文遺跡は756ヶ所あり、土器などの出土物は、他の地域で作られたものや、影響を受けて県下で作られたものもある。

兵庫県加古郡播磨町大中の兵庫県立考古博物館で、「縄文土器とその世界-兵庫の1万年」と題し、特別展が420日から623日まで開催されており、250点の縄文土器や土偶などが展示されている。

縄文人は1万年以上にわたり縄文土器を作り続けた。製作時期や地域によって特色があるので、年代の特定や交易の拡がりが分かる。

石器時代に替わって縄文時代(14,000年前~2,400年前)になると、竪穴住居に定住し、縄文土器の製作・使用、農耕、狩猟、漁労、舟による交易など生活に大きな変化が起きた。

「煮炊き」に必要な土器は、形や文様に時代と地域の違いがあり、考古学にとって非常に重要な出土物である。

兵庫県立考古博物館の展示解説文を見ながら、土器の写真を撮りました。(フラッシュは不可)

最初の土器は無文であったが、順に、粘土ひもによる隆起線文土器、爪形をつけた爪形文土器、縄で文様を描く多縄文土器と変わっていく。

次の写真の右側の土器は、縄文時代草創期の土器で、新潟県津南町(つなんまち)の卯ノ木南遺跡出土の深鉢形土器(爪形文+押圧縄文土器)。

次の土器は、縄文時代早期の土器で、兵庫県豊岡市の山宮遺跡(やまのみやいせき)出土の深鉢形土器(ポジティブ楕円文)と石器。

次の土器は、同じく山宮遺跡出土で、縄文早期の山形文の深鉢形土器、

兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21292163.jpg

縄文時代早期には、西日本を中心に底が尖った押型文土器(おしがたもんどき)が作られる。

前期になると、土器の底が平らになり、縄文様が複雑になる。土器の厚さは薄くなり、煮炊き効率が良くなる。

次の写真の右側の土器は、神戸市の都賀遺跡(とがいせき)出土の深鉢形土器、縄文早期で底が尖っている、神戸市教育委員会蔵。

次の土器は、豊岡市の神鍋遺跡(かんなべいせき)出土の深鉢形土器、縄文前期で底が平らになっている、豊岡市教育委員会蔵。

次の土器は、神戸市の雲井遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、神戸市教育委員会蔵。

次の小さい土器は、兵庫県洲本市の武山遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、洲本市教育委員会蔵。

d0287413_21302269.jpg

縄文時代中期になると、東日本で遺跡数が急増し、造形も大胆になる。後期には土器の種類が増え、浅鉢、注口、台付鉢(高杯)などが出現して多様化する。土器の口縁部は平らなものへと変化する。文様も変化し、縄文の一部をすり消す「磨消縄文(すりけしじょうもん)」が描かれる。

「火焔型土器」は新潟県を中心に縄文時代中期(5,000年ほど前)に作られた深鉢形土器。

新潟県津南町(つなんまち)の諏訪前遺跡出土の火焔型土器、津南町教育委員会蔵。

d0287413_21304242.jpg

右の土器は、兵庫県南あわじ市の神子曽遺跡(みこそいせき)出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、神戸市の本山遺跡出土の深鉢形土器、神戸市教育委員会蔵。

次は、兵庫県揖保郡太子町の平方遺跡(ひらかたいせき)出土の深鉢形土器、太子町教育委員会蔵。

奥の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21310451.jpg

右の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、

次も丁・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、どちらも縄文中期、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、姫路市の今宿丁田遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

左手前の土器は、姫路市内出土の鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

d0287413_21312603.jpg

右は、神戸市の原野・沢遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、神戸市教育委員会蔵。

左は、揖保郡太子町の東南遺跡出土の深鉢形土器、縄文後期、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21314421.jpg

東日本では縄文時代晩期まで土器に縄文が付けられたが、西日本では後期後葉から次第に縄文が使われなくなり、晩期には無文となる。その原因はまだはっきり分かっていない。

私見ですが、揚子江周辺の江南人(倭人)が縄文時代中期から後期にかけて吉備地方や有明地方に渡来していたので、その影響で西日本の土器はシンプルになり、無文になったと見ています。

だからといって、弥生時代の始まりが紀元前10世紀になるわけではありません。201889日投稿の「弥生時代の始まり」をご参照ください。

兵庫県加古川市の坂元遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代晩期、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21331324.jpg

右の大きな土器は、兵庫県伊丹市の口酒井遺跡(くちさかいいせき)出土の凸帯文壺、その手前に稲の籾痕付きの浅鉢形土器。縄文時代晩期の伊丹地域では稲作が行われていた。

次は、口酒井遺跡出土の凸帯文の深鉢形土器、縄文晩期。

その奥も口酒井遺跡出土の波状口縁になっている深鉢形土器、縄文晩期。

左手前は口酒井遺跡出土の浅鉢形土器、縄文晩期。

伊丹市教育委員会蔵。

d0287413_21334296.jpg

左は岩手県一関市出土の土製品(土面)、縄文時代晩期、西宮市の辰馬考古資料館蔵、

右は淡路市の富島遺跡(としまいせき)出土の土面、縄文時代後期、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21335989.jpg

「遮光器土偶」、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡出土、縄文時代晩期、辰馬考古資料館蔵。

d0287413_21341515.jpg

手前の黒い木製品は「掘り棒」で、神戸市の玉津田中遺跡出土、縄文時代晩期。

その奥は、弥生土器の壺、甕、鉢で玉津田中遺跡出土、弥生時代前期、

兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21343238.jpg

弥生時代前期の木製の彩文鉢と彩文土器壺、姫路市の丁・柳ヶ瀬遺跡出土、上の彩色図は復元図、兵庫県立考古博物館蔵、兵庫県指定文化財。

d0287413_21344960.jpg

博物館の南に隣接する農業用水の狐狸ヶ池にカワウソのような動物がいたが、盛んに水草を食べていたので、ヌートリアでしょう。

タイワンドジョウも数匹見える。アカミミガメが大量に繁殖したので数年前から駆除しているようだ。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-05-17 01:07

庭田神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町能倉(よくら)1286  電0790-72-0315  無料駐車場あります。

祭神 事代主命

 2015331日投稿の「事代主神」をご参照ください。

  

播磨国宍粟郡に鎮座の式内社。

13代成務天皇の時代、4世紀半ばに神託により創建。

当社の東方の山裾を染河内川(そめごうちがわ)が流れており、揖保川に注ぐ。


    石の鳥居

d0287413_20205375.jpg

鳥居の右に一宮遥拝所、

当社は伊和神社(播磨国一宮)の境外末社であった時期がある。

d0287413_20211610.jpg

    随神門

d0287413_20213555.jpg

    拝殿前に絵馬殿と土俵(青いカバー)がある。

d0287413_20215744.jpg

    拝殿

d0287413_20222065.jpg

d0287413_20223824.jpg

拝殿右に霊石の「亀石」。

伊和神社の本殿後ろに「鶴石」があり、合わせて「鶴亀」になっている。

d0287413_20225989.jpg

本殿、入母屋造り銅板葺き。

d0287413_20231552.jpg

本殿左に五社五行神、手前から水分神、加具土神、大歳神、大山津見神、火魂神、

宍粟市では火魂神を祀る神社が多い。

次の境内社は荒神社、八幡社、祇園社、出雲社。

こちら向きの境内社は稲荷社と皇大神宮。

d0287413_20233384.jpg

   後ろの参道を行くと弁天社。

d0287413_20235020.jpg

   更に進むと、湧き水の霊地「ぬくいの泉」。

d0287413_20240690.jpg

d0287413_20242173.jpg

大国主命(160年頃出生)と天日槍命(230年頃出生)が国占め争いをしたが交渉が終わり、大国主命は当地で酒を醸して酒宴をしたと云う。それで、当地は庭酒(にわき)村と云われたが、庭音(にわと)村と云うように変わった。庭田神社の元の名称は庭酒神社であった。

私見ですが、国占め争いの時期は3世紀後半だったと見ています。従って、大国主命の4代ほど後の子孫が大国主命を襲名して播磨を開拓していたと思います。そして4世紀になると当社が創建された。

また、播磨国風土記の宍粟郡の条に酒造りの話がある。大国主神が国造りの大業を終え、景色が良く清水が湧き出る「ぬくい」の水辺に大業に係わった諸神を集め、もてなしの宴を行った。

その時大国主神が持参した干飯(かれい)を「ぬくい」の水で戻した時に一部の飯にカビ(麹)が生え、酒成分が生じて酒の発見になった。米飯を材料にして造った日本酒の庭酒(にわき)である。

それまでの古代の酒造りは、米を噛んで瓶(かめ)に入れて発酵させていた。噛んで入れる器だから「かめ(瓶)」と云ったのかな?

当地は酒造りに縁が深く、「日本酒発祥の地」と云われている。現在でも「庭酒(にわざけ)」ブランドの日本酒が販売されている。

酒米を品種改良してできた「山田錦」を使って、播磨では日本酒がたくさん醸造されている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-05-11 00:12

伊和神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407  電0790-72-0075

道向かいの「道の駅 播磨いちのみや」に車を停める。

播磨国一宮、伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)。

祭神 大己貴神(大名持御魂神、大国主神、伊和大神)、

    少彦名神(大己貴神の国造りに協力した)、

    下照姫神(大己貴神の子神)。

創建 13代成務天皇の時代、4世紀半ば。

d0287413_21031730.jpg


 

 当社では「三つ山祭」が61年に1度行われる。伊和神社の北の花咲山(637m)、西の高畑山(470m)、東の白倉山(841m)の磐座信仰・山岳祭祀である。山頂まで長い行列ができると云う。

 伊和神社の東北(鬼門)の宮山(みやま、514m)にも多くの磐座があり、「一つ山祭」が21年に1度行われる。宮山が伊和神社の元宮とも云われる。

伊和神社から少し東へ歩いた所から写した宮山(みやま)。

d0287413_21073230.jpg

三つ山と一つ山の神事が姫路市の播磨国総社「射楯兵主神社」にも引き継がれている。

  

西参道に行くと、境内末社の市杵島姫神社(祭神は市杵島姫命)、通称弁天さん。

d0287413_21091029.jpg

d0287413_21093203.jpg

北参道に行くと、三山乙女の泉。

d0287413_21095480.jpg

  周辺には磐座がたくさんあるので古代に磐座信仰があったのか。

d0287413_21101314.jpg

d0287413_21103144.jpg

2013427日投稿の「伊和神社」をご参照ください。

   

播磨国風土記によると、大汝命(大己貴命)の妃に「許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめのみこと)」がいる。

日本書紀に記載の木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃になった。

木花開耶姫は瓊瓊杵尊と大己貴命の妃になったことになる。妃になったのは同時期ではなく、時間差があると思われるが、古代は一夫一婦制ではなく、お互いに気に入った男女が一緒になり、イヤになったら別れると云う「自然な現象?」であった。

同時期に数人の豪族が、日を変えて姫の所に通ってくることも多かった。それで、姫が出産しても子の父親が誰なのか分からない場合があった。それで父親を決めるために「盟酒(うけいざけ)」が行われた。   

伊和神社の1.2km北の一宮町閏賀(うるか)279に川崎稲荷神社が鎮座。主神は宇賀魂神(うかのみたまのかみ)であるが、配神は大山祇神と木華咲耶姫命の親子になっている。地名の閏賀は、播磨国風土記によると、大汝神(大己貴命)の妻になった許乃波奈佐久夜比売命が美麗であったので、雲箇(うるか、宇留加)里になったとある。

   

伊和神社は「海神社」「粒坐天照神社」とともに播磨三大社の一社となっている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-05-03 00:07