大阪府吹田市(すいたし)岸部(きしべ)北4丁目18-1 電06-6388-5735
鳥居の右横から境内に入れます。
摂津国島下郡(しましもぐん)吉志部村(きしべむら)の紫金山(しきんざん)に鎮座。
吉志部(きしべ)から現在の地名岸部(きしべ)となった。
祭神
中央に 天照皇大神、豊受大神、
左座に 八幡大神、素戔嗚大神(牛頭天王)、稲荷大神、
右座に 春日大神、住吉大神、蛭子大神(恵比寿三郎、事代主神)。
当地は、「難波吉志」一族が活躍する「吉志部の里」であった。
新撰姓氏録に「摂津国 皇別 吉志 難波忌寸同祖 大彦命之後也」がある。
難波吉士は皇別になっているが、渡来人と交わったかもしれない。
日本書紀によると、
難波吉士磐金(なにわのきしいわかね)が推古天皇5年(597年)、新羅に派遣された。
難波吉士雄成(なにわのきしおなり)が推古天皇16年(608年)、遣隋小使として小野妹子に従い随に派遣された。
吉士長丹(きしのながに)が孝徳天皇4年(653年)に遣唐使第一船の大使として副使の吉士駒(きしのこま)と共に遣唐使として121人を率いて派遣された。
難波吉士国勝(なにわのきしくにかつ)が斉明天皇2年(656年)、百済より帰還したとある。
その後の当地は物部氏の一族・吹田氏の領地となったが、平安時代初期に藤原氏の荘園になったので春日大神も祀られている。
10月の秋季例大祭では、収穫祭の「どんじ」と呼ばれる神事が行われ、吹田市の無形民俗文化財に指定されている。
私見ですが天照皇大神(天照大神)は、
①大日孁貴尊(おおひるめのむちのみこと、140年頃生)、
②卑弥呼(ひみこ、179年‐247年)、
③臺與(とよ、235年頃‐295年頃)の三柱神を一柱に習合していると考えています。

当社の社伝によれば、
創建は10代崇神天皇の御代(3世紀後半)で、大和国の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)から「天照皇大神」を奉遷し、「太神宮」と称した。
53代淳和天皇の天長元年(824年)に「天照大御神」に改称。
江戸時代には天照大神を主神とした「七社明神」と呼ばれたが、正徳3年(1713年)に「豊受大神」を合祀して「八社明神」、「吉志部村鎮守八社」となった。
明治の神仏分離により、明治3年(1870年)に吉志部神社(きしべじんじゃ)に改称した。
神社の道向かいのレストラン「かつあんどかつ」で昼食のロースカツを注文したが、すこぶる美味しかったです。

燈籠と社号標、一の鳥居。


一の鳥居から参道を400mほど歩いて道路を渡ると、
二の鳥居(神額は「太神宮」)と社号標。


更に参道が続く。

手水舎

参道を振り返る。

神門


境内から神門を望む。

拝殿、南東向き。


社務所

本殿、慶長15年(1610年)に築造も平成20年(2008年)に放火で全焼したが、
平成23年(2011年)に400年前の様式を正確に復元した。
安土桃山様式の華麗な社殿で、七間社流れ造りの桧皮葺き、覆い屋で護っている。



社殿右に境内社、右から愛宕之宮・大国主之神・事比羅神・天水分神。

境内社の大川神社。

社殿右後方に吉志部古墳。


奈良時代の
「吹田34号須恵器窯跡」、国指定史跡の「吉志部瓦窯跡」。


日本の政治が大きく動き始めていますが、やはり幅広いイデオロギーの議員を擁している自民党は来年には二つの政党に分かれて政策を決定・実行できる政治を行って欲しいと思います。
そういう意味で、イデオロギーの違う公明党と連立解消したのは国家国民にとって非常に良いことであったと思います。しかも公明党は中国の指示通りに動いていたことが判明しました。
これからは「政策が共通する」複数政党の連立時代に入ります。選挙の投票率も上がって欲しいと考えています。
それ以上に日本を愛する人に立候補して欲しいと考えています。反日帰化人が多すぎます。
印南神吉(いんなみ かんき)



















































