10代祟神天皇(みまきいりひこいにえ)
御間城入彦五十瓊殖天皇、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
皇居: 磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
陵所: 山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ・行燈山古墳)
4世紀前半築造、奈良県天理市柳本町、全長242m。
私見では祟神天皇は250年頃出生、294年頃即位、318年頃崩御。享年68才位。
崇神天皇は、磯城(磯城郡)の水垣宮を都にした。桜井市金屋896に、志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ、祭神:饒速日命)があり、その境内に「瑞籬宮址」石碑が立つ。三輪山の麓の目立たない場所にある。南には海柘榴市(つばいち)があり、重要な産物が交易された。近くを流れる初瀬川が大和川になり河内に繋がっていた。そして大和から初瀬・東国へ向かう重要な位置でもあった。
景行天皇陵から三輪山(標高467m)の全体を見ることができます。三輪山は古代から三輪明神(大神神社)の御神体として崇拝されています。また、38代天智天皇が667年
3月、飛鳥から近江の大津へ遷都の時、額田王が「山の辺の道」のこの辺りで振り返って詠まれた歌が万葉集にあり、その歌碑がこの辺りに建っています。
三輪山を しかも隠すか 雲だにも
心あらなも 隠さふべしや
天気のいい日に古墳の周りを歩いて散策しますと、奈良時代に戻ったような
すがすがしい気持ちになります。
御間城入彦五十瓊殖天皇、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
皇居: 磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
陵所: 山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ・行燈山古墳)
4世紀前半築造、奈良県天理市柳本町、全長242m。
私見では祟神天皇は250年頃出生、294年頃即位、318年頃崩御。享年68才位。
崇神天皇は、磯城(磯城郡)の水垣宮を都にした。桜井市金屋896に、志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ、祭神:饒速日命)があり、その境内に「瑞籬宮址」石碑が立つ。三輪山の麓の目立たない場所にある。南には海柘榴市(つばいち)があり、重要な産物が交易された。近くを流れる初瀬川が大和川になり河内に繋がっていた。そして大和から初瀬・東国へ向かう重要な位置でもあった。
祟神天皇は倭大国魂神と天照大神を宮中で祀った。それまでの大君は高皇産霊神を祀っていた。ところが、国内に疫病・反乱が多発し制御が困難になったので二神を宮中から出したが、それでも混乱は続き、倭迹迹日百襲姫の神託により大田田根子に大物主神を祀らせると国内は鎮まった。
大和朝廷は初代神武から9代開化までの70年ほどで奈良盆地と周辺地域を掌握すると、10代崇神天皇は3世紀末に四道将軍を派遣し、北陸将軍に大彦(桜井茶臼山古墳)、東海将軍に武沼河別(メスリ山古墳)、丹波将軍に丹波道主(京丹後市の黒部銚子山古墳)、西海将軍に吉備津彦(吉備の中山茶臼山古墳)を任命した。
10代崇神天皇と11代垂仁天皇の2代で東北・北陸から吉備・出雲まで勢力を拡大した。12代景行天皇は日本武尊に九州・東国を制圧させ、自らも熊襲退治に九州へ出兵した。14代仲哀天皇皇后の神功皇后が朝鮮半島にまで遠征し、15代応神天皇が畿内で安定政権を確立する。10代崇神天皇から15代応神天皇までの約100年間は大和朝廷の全国制圧戦の歴史です。
倭迹迹日百襲姫を最初の定形型前方後円墳の箸墓古墳に埋葬する。私見では西暦300年頃と思われる。これをもって弥生時代の終焉、古墳時代の始まりとなる。箸墓古墳については、250年頃と見る向きが増えてきて、卑弥呼の墓説が出ていますが、卑弥呼は筑紫で亡くなったのではないでしょうか。臺與が270年から280年頃に大和に東遷した可能性はあると思いますが、それであれば、記紀には倭迹迹日百襲姫と記されている人が臺與に仮託されているのかもしれません。ただし、記紀にはそのような東遷記録がありませんので、考古学的な発掘で新発見を期待しています。
12代景行天皇 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
皇居: 纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
陵所: 山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ・渋谷向山古墳)
4世紀後半築造、奈良県天理市渋谷町
全長約300mで奈良県では見瀬丸山古墳についで第二位の大きさ。全国では第七位。
景行天皇の母は日葉洲媛(丹波道主の娘)、皇子は日本武尊。
私見では景行天皇は285年頃出生、350年頃崩御。
景行天皇が熊襲や土蜘蛛を退治したあと三毛(みけ・福岡県三池)に行った時、倒れた樹木があった。長さ九百七十丈、天皇はこれは何の木かと尋ねた。老人が「これはクヌギです。倒れていなかった時は朝日に照らされて杵島山を隠すほどでした。夕日に照らされると阿蘇山を隠すほどでした。」といった。
日本書紀には、直接的に書きにくい事を比喩で暗示する筆法を用いている事が多い。記紀成立の8世紀では大和朝廷は中国と対等意識が強く、3世紀に卑弥呼や臺與が魏に朝貢した事は認められないことであった。従って筆法が用いられた。三毛の樹木は970丈で、こんな長い木はないが、あり得ないことを書いて暗示をする。九(く)百七(な)十丈は狗奴国のこと。木の名前がクヌギでこれも狗奴国の事。木が立っていた時の影響範囲は佐賀県の杵島山から熊本県の阿蘇山まで、つまり狗奴国の領域は佐賀県南部、長崎県、熊本県ということになります。こんな筆法が日本書紀の随所に表れています。
大和朝廷は初代神武から9代開化までの70年ほどで奈良盆地と周辺地域を掌握すると、10代崇神天皇は3世紀末に四道将軍を派遣し、北陸将軍に大彦(桜井茶臼山古墳)、東海将軍に武沼河別(メスリ山古墳)、丹波将軍に丹波道主(京丹後市の黒部銚子山古墳)、西海将軍に吉備津彦(吉備の中山茶臼山古墳)を任命した。
10代崇神天皇と11代垂仁天皇の2代で東北・北陸から吉備・出雲まで勢力を拡大した。12代景行天皇は日本武尊に九州・東国を制圧させ、自らも熊襲退治に九州へ出兵した。14代仲哀天皇皇后の神功皇后が朝鮮半島にまで遠征し、15代応神天皇が畿内で安定政権を確立する。10代崇神天皇から15代応神天皇までの約100年間は大和朝廷の全国制圧戦の歴史です。
倭迹迹日百襲姫を最初の定形型前方後円墳の箸墓古墳に埋葬する。私見では西暦300年頃と思われる。これをもって弥生時代の終焉、古墳時代の始まりとなる。箸墓古墳については、250年頃と見る向きが増えてきて、卑弥呼の墓説が出ていますが、卑弥呼は筑紫で亡くなったのではないでしょうか。臺與が270年から280年頃に大和に東遷した可能性はあると思いますが、それであれば、記紀には倭迹迹日百襲姫と記されている人が臺與に仮託されているのかもしれません。ただし、記紀にはそのような東遷記録がありませんので、考古学的な発掘で新発見を期待しています。
12代景行天皇 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
皇居: 纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
陵所: 山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ・渋谷向山古墳)
4世紀後半築造、奈良県天理市渋谷町
全長約300mで奈良県では見瀬丸山古墳についで第二位の大きさ。全国では第七位。
景行天皇の母は日葉洲媛(丹波道主の娘)、皇子は日本武尊。
私見では景行天皇は285年頃出生、350年頃崩御。
景行天皇が熊襲や土蜘蛛を退治したあと三毛(みけ・福岡県三池)に行った時、倒れた樹木があった。長さ九百七十丈、天皇はこれは何の木かと尋ねた。老人が「これはクヌギです。倒れていなかった時は朝日に照らされて杵島山を隠すほどでした。夕日に照らされると阿蘇山を隠すほどでした。」といった。
日本書紀には、直接的に書きにくい事を比喩で暗示する筆法を用いている事が多い。記紀成立の8世紀では大和朝廷は中国と対等意識が強く、3世紀に卑弥呼や臺與が魏に朝貢した事は認められないことであった。従って筆法が用いられた。三毛の樹木は970丈で、こんな長い木はないが、あり得ないことを書いて暗示をする。九(く)百七(な)十丈は狗奴国のこと。木の名前がクヌギでこれも狗奴国の事。木が立っていた時の影響範囲は佐賀県の杵島山から熊本県の阿蘇山まで、つまり狗奴国の領域は佐賀県南部、長崎県、熊本県ということになります。こんな筆法が日本書紀の随所に表れています。
景行天皇陵から三輪山(標高467m)の全体を見ることができます。三輪山は古代から三輪明神(大神神社)の御神体として崇拝されています。また、38代天智天皇が667年
3月、飛鳥から近江の大津へ遷都の時、額田王が「山の辺の道」のこの辺りで振り返って詠まれた歌が万葉集にあり、その歌碑がこの辺りに建っています。
三輪山を しかも隠すか 雲だにも
心あらなも 隠さふべしや
天気のいい日に古墳の周りを歩いて散策しますと、奈良時代に戻ったような
すがすがしい気持ちになります。
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by enki-eden
| 2012-12-24 17:11





