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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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祟神天皇陵と景行天皇陵

10代祟神天皇(みまきいりひこいにえ)
 御間城入彦五十瓊殖天皇、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
 皇居: 磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
 陵所: 山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ・行燈山古墳) 
     4世紀前半築造、奈良県天理市柳本町、全長242m。
 私見では祟神天皇は250年頃出生、294年頃即位、318年頃崩御。享年68才位。
 崇神天皇は、磯城(磯城郡)の水垣宮を都にした。桜井市金屋896に、志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ、祭神:饒速日命)があり、その境内に「瑞籬宮址」石碑が立つ。三輪山の麓の目立たない場所にある。南には海柘榴市(つばいち)があり、重要な産物が交易された。近くを流れる初瀬川が大和川になり河内に繋がっていた。そして大和から初瀬・東国へ向かう重要な位置でもあった。
   



 祟神天皇は倭大国魂神と天照大神を宮中で祀った。それまでの大君は高皇産霊神を祀っていた。ところが、国内に疫病・反乱が多発し制御が困難になったので二神を宮中から出したが、それでも混乱は続き、倭迹迹日百襲姫の神託により大田田根子に大物主神を祀らせると国内は鎮まった。
 大和朝廷は初代神武から9代開化までの70年ほどで奈良盆地と周辺地域を掌握すると、10代崇神天皇は3世紀末に四道将軍を派遣し、北陸将軍に大彦(桜井茶臼山古墳)、東海将軍に武沼河別(メスリ山古墳)、丹波将軍に丹波道主(京丹後市の黒部銚子山古墳)、西海将軍に吉備津彦(吉備の中山茶臼山古墳)を任命した。
 10代崇神天皇と11代垂仁天皇の2代で東北・北陸から吉備・出雲まで勢力を拡大した。12代景行天皇は日本武尊に九州・東国を制圧させ、自らも熊襲退治に九州へ出兵した。14代仲哀天皇皇后の神功皇后が朝鮮半島にまで遠征し、15代応神天皇が畿内で安定政権を確立する。10代崇神天皇から15代応神天皇までの約100年間は大和朝廷の全国制圧戦の歴史です。
 倭迹迹日百襲姫を最初の定形型前方後円墳の箸墓古墳に埋葬する。私見では西暦300年頃と思われる。これをもって弥生時代の終焉、古墳時代の始まりとなる。箸墓古墳については、250年頃と見る向きが増えてきて、卑弥呼の墓説が出ていますが、卑弥呼は筑紫で亡くなったのではないでしょうか。臺與が270年から280年頃に大和に東遷した可能性はあると思いますが、それであれば、記紀には倭迹迹日百襲姫と記されている人が臺與に仮託されているのかもしれません。ただし、記紀にはそのような東遷記録がありませんので、考古学的な発掘で新発見を期待しています。

12代景行天皇 大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
 皇居: 纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)
 陵所: 山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ・渋谷向山古墳) 
      4世紀後半築造、奈良県天理市渋谷町
 全長約300mで奈良県では見瀬丸山古墳についで第二位の大きさ。全国では第七位。
 景行天皇の母は日葉洲媛(丹波道主の娘)、皇子は日本武尊。
 私見では景行天皇は285年頃出生、350年頃崩御。
 景行天皇が熊襲や土蜘蛛を退治したあと三毛(みけ・福岡県三池)に行った時、倒れた樹木があった。長さ九百七十丈、天皇はこれは何の木かと尋ねた。老人が「これはクヌギです。倒れていなかった時は朝日に照らされて杵島山を隠すほどでした。夕日に照らされると阿蘇山を隠すほどでした。」といった。
 日本書紀には、直接的に書きにくい事を比喩で暗示する筆法を用いている事が多い。記紀成立の8世紀では大和朝廷は中国と対等意識が強く、3世紀に卑弥呼や臺與が魏に朝貢した事は認められないことであった。従って筆法が用いられた。三毛の樹木は970丈で、こんな長い木はないが、あり得ないことを書いて暗示をする。九(く)百七(な)十丈は狗奴国のこと。木の名前がクヌギでこれも狗奴国の事。木が立っていた時の影響範囲は佐賀県の杵島山から熊本県の阿蘇山まで、つまり狗奴国の領域は佐賀県南部、長崎県、熊本県ということになります。こんな筆法が日本書紀の随所に表れています。
   


 景行天皇陵から三輪山(標高467m)の全体を見ることができます。三輪山は古代から三輪明神(大神神社)の御神体として崇拝されています。また、38代天智天皇が667年
3月、飛鳥から近江の大津へ遷都の時、額田王が「山の辺の道」のこの辺りで振り返って詠まれた歌が万葉集にあり、その歌碑がこの辺りに建っています。
   三輪山を しかも隠すか 雲だにも 
   心あらなも 隠さふべしや

 天気のいい日に古墳の周りを歩いて散策しますと、奈良時代に戻ったような
すがすがしい気持ちになります。


印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp

# by enki-eden | 2012-12-24 17:11

和邇氏と東大寺山古墳

 和邇氏は和珥、和迩、丸邇などとも称する古代豪族で、5代孝昭天皇の長男・天足彦国押人を始祖とする皇別氏族である。本拠地は奈良盆地東部の天理市和爾町である。四道将軍、遣隋使、遣唐使を多く輩出している海人系の氏族である。
 阿曇氏と共に綿津見豊玉彦系の海人族であるが、九州における本拠地は遠賀川の河口付近の岡の水門で、遠賀川、関門海峡や洞海湾を根城にしていたと考えられる。宗像と近いので宗像氏(大国主・事代主系)とも関係が深い。その他、各地に鰐、鰐浦、和仁、王仁などの地名を残している。
 和邇氏は神武東征に加わったが、饒速日東征の大部隊の中に和邇氏の名前が見えない。和邇氏は同じ素戔嗚系の饒速日ではなく五十猛の配下にあったのかもしれない。
 天理市の和爾下神社は祭神として素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命を祀る。和邇氏の氏神であった。和爾下神社古墳の後円部の上に建つ神社で社家は櫟井氏。北東1kmほどに、和爾坐赤阪比古神社が鎮座する。
 和邇氏は29代欽明天皇時代から春日姓に改姓し、神武天皇時代から天皇家に妃を出す氏族であった。4世紀後半から6世紀後半までが最盛期である。神功皇后時代に活躍した難波根子建振熊が記紀に記されている。神功皇后新羅遠征(363年)の時に丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍した。建振熊は和邇氏であるが丹波・但馬・若狭の長となった。従って海部氏の系図にも組み込まれている。
 和邇氏の系列子孫に柿本人麿、小野妹子、小野小町、小野道風、山上憶良などがおり、息長氏とも近い関係にあった。
 日本書紀に「豊玉姫が子を生む時に八尋鰐に変わっていた」とあり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合を産む。豊玉姫は海人の鰐族である。彦波瀲武鸕鶿草葺不合の妃は豊玉姫の妹の玉依姫(鰐)で、神武天皇を産む。つまり神武天皇も鰐族である。神武が東遷するときの出発点は和邇氏の本拠地の岡水門である。
 日本書紀に「事代主神が八尋の熊鰐になって三島溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛との間に媛蹈鞴五十鈴媛が生まれた。神武天皇は媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。」とある。つまり事代主は熊鰐であり、その子の媛蹈鞴五十鈴媛も熊鰐である。神武天皇も鰐族である。事代主神は現在でも宮中神殿に祀られている。皇室創設に大きな貢献があったためである。
 対馬では今でも、大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と言い、「ワニ・和邇氏」というのは大きな船を持って遠洋航海できる氏族という意味なのか。それに対して「カモ・鴨氏」は小さな舟で沿海や川を利用していたか。

東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)
 奈良県天理市に所在する古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ長さ110cmの鉄刀があった。「中平」の年号は184年から190年であり倭国乱の時期に含まれる。後漢では184年に起きた黄巾の乱をきっかけに、魏・呉・蜀の三国時代に突入する直前である。「中平」の頃、楽浪郡を支配していたのは公孫氏であるから、この鉄刀は和邇氏が公孫氏に朝貢して下賜された刀であろう。東大寺山古墳は和邇氏の領域にあり、4世紀後半築造を考えると埋葬者は建振熊の可能性が高い。
 この刀を発掘調査した天理大学名誉教授の金関恕氏(かなせきひろし・84才)は、鉄刀に刻まれた銘文の字体は、後漢の官営工房の字体とは異なる。後漢の官営工房の字体は様式化が進み整った隷書体である。この刀に刻まれた字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって銘文が刻まれたのは、後漢の官営工房以外の地ではないかと推理する。
 2世紀後半になると、後漢は衰退する。184年遼東太守となった公孫氏は、後に独立し燕王を自称する。西暦190年には後漢の都・洛陽が炎上し廃墟となった。修復できずに長安に遷都した。漢委奴国王を継いでいる女王卑弥呼は後漢と交易できる状態になく、公孫氏と交易したと考えられる。



 印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2012-12-23 12:08

蛇信仰

蛇の古語
 カカ    カガチ、イカガシコオ (伊香色雄)
 ハハ   ハハキリ(天羽々斬)の剣
      日本書紀の一書には天蝿斫剣とある。「蝿」が「ハハ」と読むなら、7代孝霊天
      皇妃の蝿伊呂泥(はえいろね・古事記)、蠅伊呂杼(はえいろど)も「ハハ・蛇」
      かもしれない。
 ヌカ   ヌカヒメ (蛇巫、田王)、ヌカト (天の糠戸)鏡作部の祖  
 ナガ・ナギ
 鏡は蛇の目(カカメ)→鏡(カガミ)、額田王の父は鏡王。

 インド神話でのインドコブラの蛇神ナーガ(雄)・ナーギ(雌)からナガ・ナギ(蛇)は来ていると言う説があります。「長い」という言葉も「ナガ」が語源か。イザナギナガスネヒコ、オキナガタラシヒメ(神功皇后)。うなぎもこの中に入るのか?
 「ナガ」「ナギ」から「ニギ」に変化したともいわれる。 ニギハヤヒ、ニニギ
 そして八俣大蛇、三輪山の蛇信仰、神社の注連縄などはインドの蛇神話につながっているかもしれない。ヒンドゥー教では蛇神が重要な役割を果たしてきた。インドのみならず、かつては蛇神が世界中で信仰されていたが、今日では細々としたものになってしまった。
 奈良県桜井市の大神神社の境内手前に「巳の神杉」があるように、日本では蛇信仰が残っている。
   東大阪市の石切剣箭神社の注連縄(2009年9月24日撮影)
蛇信仰_d0287413_13463689.jpg

 あるいは、注連縄は蛇ではなくて、「出雲」の雲と言う説もあります。注連縄が雲で、大きな鈴が雷、紙垂(しで)が稲妻という説も捨てがたいと思います。

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# by enki-eden | 2012-12-22 14:34

ホケノ山古墳

 奈良県桜井市の169号線を東に入り、箸墓古墳の南側を東進し、更に細い道路をくねくねと進むとホケノ山古墳に着きます。箸墓からは200mほどですが最後の曲がり角が非常に狭く右は川、左は民家の塀で車が曲がるのにギリギリです。やっと曲がると駐車場にたどり着きます。



 細い道路から直ぐに前方部に繋がっており、苦労もなく墳頂に登れます。御所市室の宮山古墳に登った時は大きくて大変だったことを思い出しました。
 ホケノ山古墳は全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの、前方部を三輪山に向けてつくられた前方後円墳です。墳頂からすぐ西に箸墓古墳が見えます。直ぐ麓にも小さな古墳が見えます。
 墳丘の表面には葺石があり、周濠を巡らしていますが、現在では南方に池があるだけです。前方部裾には、葺石を一部破壊して設けられた埋葬施設があります。
 後円部には石囲いの中に木槨を造った二重構造の槨があり、木槨内に高野槇製のくり抜き木棺があったと推定されています。魏志倭人伝に「倭国の墓には棺あって槨なし」と記されていますが、卑弥呼が亡くなった頃にホケノ山古墳が造られたと考えられる事から、倭国・邪馬台国は大和ではなく北部九州であった証拠の一つになるのでは? 
 邪馬台国近畿説の皆様には少し不利かな?
 2010年11月16日撮影
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 遺物は後漢鏡とみられる画文帯神獣鏡1枚(直径19cm)と破片、内行花文鏡の破片、素環頭大刀を含む鉄剣類約10本、庄内式土器約20個と大量の銅鏃、鉄鏃など。棺内に大量の水銀朱も残っていた。壷は石壇の上に一定間隔で並べられていたとみられる。
 大きなな木棺、画文帯神獣鏡や水銀朱など、箸墓古墳以降の前方後円墳につながる要素もあり、調査委は「弥生墳墓と前期前方後円墳の中間的なもの」と結論づけた。銅鏡は鋳上がりがよく文様もはっきりしているため、後漢末に作られたとみられる。
 画文帯神獣鏡が後漢末に作られ、日本にもたらされ副葬されたとみられることと、出土土器がすべて弥生時代後期に属することなどから、築造年代を3世紀半ば(卑弥呼が亡くなった頃)とされている。当時は筑紫、出雲、吉備、但馬、播磨、河内、大和、東国などに国があり、集落があり、市があり、列島レベルで交易がなされていたと考えられます。
 その中で1世紀の北部九州30カ国ほどを取りまとめる代表の奴国が「漢委奴国王」として交易のリーダーであったのでしょう。その後、2世紀には奴国王は倭王として認められるまでに成長し、奴国王族の卑弥呼が女王となり魏に朝貢して親魏倭王印を授かった。そのために卑弥呼は先祖伝来の宝物・漢委奴国王印を聖地・志賀島に埋納したと私は考えています。
 親魏倭王印は二代目女王臺與が引き継いで、魏が滅んだ時(265年)に臺與の本拠地の聖地に埋納したことでしょう。しかし、臺與が266年に晋に朝貢しましたが、満足の行く待遇ではなかったと私は考えています。金印授与もなかったことでしょう。やがて大陸では内乱が続き、交易できる状態ではなくなりました。列島支配を進めるためには筑紫よりも大和が適地であったので、臺與は大和に東遷した可能性もあると私は考えています。記紀にはそんな話はありませんから、これからの考古学的発掘に頼るしかありませんけどね… 
 臺與が仮に東遷したのであれば、宝物の金印を埋納すべき大和の聖地は、三輪山になるでしょうね。大神神社に記録がありませんかねぇ。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2012-12-21 13:50

皇祖は素戔嗚

 平安時代の810年に52代嵯峨天皇(786年~842年、50代桓武天皇の第二皇子、在位809~823年)は、尾張の津島神社について次のように述べています。
   素尊(素戔嗚命)は則ち(すなわち)皇国の本主なり。
   ゆえに日本の総社と崇め給いしなり

 天皇の治める国の本主というのですから、素戔嗚は日本における最高神であり、それを祀る津島神社は、最高の神社であると言っています。つまり、「素戔嗚が皇祖」であると言っているのです。
 嵯峨天皇の子で源姓(皇室と源流が同じと言う意味)を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏といい、その後の天皇も源姓を与えることがありました(清和源氏、宇多源氏など)。清和源氏から分かれた河内源氏の源義家(八幡太郎義家1039年~1106年)の子孫が源頼朝(1147年~1199年)です。
 私は素戔嗚が皇祖で、その第二子・五十猛が天孫族の長、五十猛の子が神武天皇と考えています。ところが記紀には皇祖は天照大神でその子孫が天孫族と記されています。これは記紀の作成を始めた7世紀後半から記紀の成立した8世紀前半の大和朝廷の事情によると考えられます。女帝で41代持統天皇と藤原不比等による介入があったのでしょう。

五十猛と茅葺不合
 対馬 和多都美神社の祭神は「彦火火出見尊、豐玉姫命」
 住所: 長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮55  一の宮
 原初の神体は磯良エビスと呼ばれる霊石。
 安曇磯良武の磯良武はイソタケルと読め、素戔嗚の第二子・五十猛となる。また彦渚武茅葺不合尊のナギサタケはイソタケルの同義となり、五十猛命、磯良、彦渚武が繋がってくる。
 五十猛命は紀伊の名草に鎮座しており、名草のタケルである。彦ナギサタケに通じる。茅葺不合尊の子は神武天皇である。神武は大和で高皇産霊神を祀った。高皇産霊神は高木の神で五十猛のことと考えられる。(木の神、紀の神)
 神武天皇の父親は彦渚武茅葺不合尊(五十猛)で、母親は玉依姫です。玉依姫の姉は豊玉姫で出産の時に鰐になります。豊玉姫と玉依姫の父親は綿津見豊玉彦で和珥氏・安曇氏の祖ですから、やはり和珥(鰐)です。神武天皇が大和に東征した後、大和朝廷に和珥氏から多くの妃が嫁いでいきます。
 この仮定が正しいとすれば、皇祖は素戔嗚となりますがねぇ。仮に私が推定する生没年を記してみます。神には生没年などないといって怒らないでくださいね。
  素戔嗚  140年頃~200年頃
  五十猛  160年頃~220年頃
  大国主  160年頃~220年頃
  神武天皇 180年頃~245年頃
 
皇室から素戔嗚が皇祖として崇敬されている例として2神社をご紹介します。
津島神社 
 住所:愛知県津島市神明町1番地     TEL 0567-26-3216
 建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀る。当社は東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社である。
 社伝によれば、29代欽明天皇元年(539年)にご鎮座、弘仁元年(810年)正一位の神階と日本総社の号を、66代一条天皇の正歴年中(990年頃)には天王社の号を賜わり、諸国の天王社の総本社で、全国に約三千のご分霊社があります。
 御鎮座以来歴代の武門を始め庶民から信仰され、津島に隣接の勝幡城(しょばたじょう)の出身である織田信長は、当社を氏神と仰いで造営その他に協力し、豊臣秀吉は天正19年(西暦1591年)楼門(重要文化財)を寄進し、 慶長3年(西暦1598年)には秀頼が秀吉の病気平癒を祈願して南門(県文化財)を寄進した他、社領等を寄進造営しました。
 正保4年(西暦1647年)尾張藩主徳川義直は、社領として津島の地1,293石余を寄進し、後に将軍家綱の朱印状を以って幕府寄進の神領地となり明治維新まで続きました。
 当社の神紋は木瓜紋(もっこうもん)で、八坂神社や全国の多くの祇園神社と同じ紋である。織田信長の使用した家紋も織田木瓜で同じである。
皇祖は素戔嗚_d0287413_1530402.gif


氷川神社 
 住所:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407    ℡ 048-641-0137
 武蔵近辺に200社以上ある氷川神社の総本社である。
 主祭神: 須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命。
 神紋は八雲紋。祭神・素盞嗚尊の有名な八雲の歌に関係する。
 さいたま市の「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は毎年200万人以上が訪れている。
 「国造本紀」によれば、12代景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。13代成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬した。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族とされる。
 社名の氷川は、出雲の斐伊川の近くに鎮座する出雲大社からの勧請によるもの。出雲大社からの勧請なら大己貴命が主祭神だが、主祭神は素盞嗚尊になっている。出雲斐伊神社の由緒では、斐伊神社の分霊が氷川神社へ祀られたとされている。
 明治元年(1868年)10月17日、東京入都の4日目に122代明治天皇は当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度参拝、昭和天皇も皇太子時代の1917年(大正6年)11月12日と天皇に即位した1934年(昭和9年)11月に、それぞれ参拝された。平成天皇も皇太子時代の1987年(昭和62年)7月に夫妻で参拝されている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2012-12-20 16:27