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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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佐太大神(さたのおおかみ)は支佐加比売命(きさかひめのみこと)の御子で、猿田彦大神(さるたひこおおかみ)とも云い、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨の際に道案内を申し出た。

「伏見稲荷大社」の稲荷三神の中社に祀られる佐田彦大神(さたひこおおかみ)と同神と云う。


出雲国風土記には、出雲の祖神である神魂命(かみむすひのみこと、かもすのみこと)と麻須羅神(ますらのかみ)の御子である枳佐加比売命(きさかひめのみこと、島根郡加賀神埼)が加賀の潜戸(かがのくけど)で佐太大神を産んだとある。

神魂命(かみむすひのみこと、かもすのみこと)は神産巣日命(かみむすひのみこと)、伊弉奈彌命(いざなみのみこと)と同じと云う。

神魂命(かもすのみこと)の御子は、枳佐加比売命(きさかひめのみこと)の他に、

 八尋鉾長依日子命(やひろほこながよりひこのみこと)、

 宇武加比売命(うむかひめのみこと)、

 天御鳥命(あめのみとりのみこと)、

 天津枳比佐可美高日古命(あまつきひさかみたかひこのみこと)、

 綾門日女命(あやとひめのみこと)、

 真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめのみこと、大穴持命の妻)などがある。

佐太大神(さたのおおかみ、さだのおおかみ)_d0287413_15203795.jpg

加賀の潜戸地図


猿田彦命は、目が輝き、鼻が高く、赤ら顔だったので「天狗」の原形とされる。神社の秋祭りでは天狗が行列を先導する役として活躍する。

「猿田彦命」「日本列島に来たドラヴィダ人」をご参照ください。

   

猿田彦命の妻は鈿女(うずめ、宇受女)で、「宇佐女」とも云うので宇佐の出身か。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨後、猿田彦命と鈿女は伊勢に移動した。

播磨国風土記によると、伊和大神(大国主神)の御子である伊勢都日子(伊勢津彦)は出雲から伊勢に移動、猿田彦大神の神霊を伊勢の安坂山に遷した。

伊勢国風土記によると、天照大神に先立って猿田彦命が伊勢の地を守っていた。

  

三重県鈴鹿市山本町の「椿大神社」は、「伊勢国一の宮、猿田彦大本宮」になっている。


宗像氏(むなかたうじ)は出雲から北部九州の宗像へ移住した出雲神族の海人族で、安曇氏(あづみうじ)も出雲から北部九州の博多湾に移住した出雲神族の海人族であった。

島根県松江市鹿島町(かしまちょう)佐陀宮内(さだみやうち)の佐太神社(さだじんじゃ)は出雲国二宮で、佐太御子大神(さたみこのおおかみ=猿田彦神)を祀る。

社殿は北東向きに建っている。

神社の前に佐陀川が南から北へ流れている。

延喜式神名帳には「佐陀神社」と記されている。佐陀大社、佐陀大明神などと呼ばれた。

摂社の田中神社には木花開耶姫命と磐長姫命の姉妹が祀られている。磐長姫命の社殿は東向きに、木花開耶姫命の社殿は背中合わせで西向きに建っている。

佐太神社地図

田中神社地図


滋賀県犬上郡(いぬかみぐん)多賀町(たがちょう)多賀の多賀大社(伊邪那岐大神、伊邪那美大神)の神官は、古代より車戸(くるまど)氏で、出雲神族の「クナト王」がルーツ。

車戸家は皇室や源氏と姻戚関係にあり、多賀大社は元々クナトの夫婦神を祀っていた。

クナトの夫婦神の呼び方が記紀に合わせてイザナギ・イザナミに変わったのかもしれない。

彦根市野田山町に、多賀大社の境外摂社・山田神社が猿田彦大神を祀る。

多賀大社地図


山田神社地図


印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2025-09-16 15:33

古事記によると、

伊弉諾命(いざなぎのみこと、125年頃‐190年頃)が、頸のネックレスを外して玉の触れ合う音を聞かせ、天照大神に与えた。

そして、あなたは天上界を統治しなさいと云われた。

このネックレス(首飾り)は、美しい高貴な宝石の翡翠(ひすい)製の勾玉であったと考えられる。

瓊(に)とも云うが、保管される場所に因んで「御倉板挙神(みくらたなのかみ)」として宮殿の棚に保管されていた。

この宝石は翡翠(ひすい)が主で、緑の碧玉(へきぎょく)、瑪瑙(めのう)、水晶などもあり、縄文時代から製造されてきた。

勾玉

御倉板挙神(みくらたなのかみ)_d0287413_09130065.jpg

天照大神と素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃‐200年)が天安河(あめのやすかわ)で誓約(うけい)をした時に、素盞嗚尊が天照大神の「八尺瓊五百箇御統(やさかにのいおつのみすまる)」を要求したが、これが伊弉諾命(いざなぎのみこと)から受けた「御倉板挙神(みくらたなのかみ)」であったかもしれない。

天照大神は、天孫降臨の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を授けているが、これが伊弉諾命から受けた「御倉板挙神」であったかもしれない。

三種の神器は、

八咫鏡(やたのかがみ)が天照大神、

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が素盞嗚尊(すさのおのみこと)、

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が月読尊(つくよみにみこと)を象徴するとも云う。

初代神武天皇(181年‐248年)が西暦204年に東征を開始、211年に大和国橿原で即位したが、「御倉板挙神」を授かったという記録がない。

しかし神武天皇より先の西暦185年頃に大和国に東遷した饒速日命(にぎはやひのみこと、165年頃‐225年頃)は十種神宝(とくさのかんだから)を授かってやってきたので、「御倉板挙神」も授かっていたかもしれない。

それであれば饒速日命は神武天皇に「御倉板挙神」を献上したと考えられる。

三種の神器は寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで81代安徳天皇(1178年‐1185年)と共に入水して沈んだが、回収されたと云う。

伊弉諾命が天照大神に国家統率の証として授けた「御倉板挙神(みくらたなのかみ)」は1850年以上も経過しているが、紛失したり造り直していなければ現在も皇室に安置されていることになるが・・・

何度か造り直しているかもしれない・・・

糸魚川翡翠の価格をご覧ください。   

印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2025-09-11 09:16

世界に拡がった縄文人

最近、16,000年前に始まった縄文文化が「世界最古の文明」だと云われている。

7,300年前に鹿児島から100km南にある「鬼界カルデラ」が噴火、世界最大の大噴火(アカホヤ噴火)となった。

外輪山の一部は海面から出ており、薩摩硫黄島(さつまいおうじま)と竹島になっている。

薩摩硫黄島

世界に拡がった縄文人_d0287413_10205150.jpg


九州の縄文人の生活は破壊され、生き延びた人々は日本列島東部、太平洋の島々、アジア大陸などに移住して広がっていった。南米大陸まで航海して行ったグループもあった。

世界中に拡がった縄文人は各地の人々と融合・協調し、縄文文明を広めていった。その結果、中国・東南アジア・オセアニア・インド・インダス・メソポタミアなどに古代文明が開化した。

縄文人の拡散が世界中で古代文明を発芽させ、縄文文明が基本となる最古の文明だったと考えられている。


現代日本人の製造技術、協調社会、高い民度などは縄文人由来の「ものづくり」と「調和」を引き継いでいる。

石器時代の日本列島では世界に先駆けて磨製石器、釣り針などのモノ造りを開始、縄文時代には縄文土器や土偶・石偶などを製造、中期には装飾性の高い火焔型土器・王冠型土器などを製造していった。

縄文中期の人口は30万人弱だったと考えられている。現代の地方都市ほどの人口であった。

「メソポタミアのウバイド人」をご覧ください。   

メソポタミアのウバイド人が西進してケルト人になり、東進して日本人に溶け込んだと考えていたが、7,300年前にメソポタミアに行った縄文人のグループがウバイド人になり、5,500年前の乾燥期に入ると一部はブリテン島に西進、一部は東進して日本列島に戻って来たのではないか。

縄文人は中国、インダス、メソポタミア、エジプトに文明の洗礼を与えたのではないか。


縄文社会は競争社会ではなく、14,000年も続く争いのない協調・共存社会であった。

5次元、6次元と次元の高い宇宙人の社会にも争いがなく、宗教もないらしい。

日本人の基礎DNAとなっている縄文人は精神レベルが高かったので、現代日本人の技術の高さ、民度の高さに繋がっている。

今後ますます日本の技術と社会システムが世界に拡がっていく。


白人至上主義や欧米の行き過ぎた個人主義に疑問を呈する欧米人が増えてきた。

この世に自分一人だけが住んでいるのであれば、どんな個人主義でも問題にならないが、地球には80億人も住んでいるので、「適度な個人主義」と共に他者・社会を意識した「秩序・協調・調和」が必要になる。

トランプ大統領の「アメリカファースト」は良いが、行き過ぎた「関税政策」で世界中がアメリカをスルーするようになった。

極端な政策や敵対政策は内外共にダメージを受けることになる。


印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2025-09-06 10:24

契丹古伝

静岡県出身の浜名寛祐(はまなひろすけ、1864年‐1938年)が日露戦争(1904年‐1905年)に従軍し、満州の奉天市(現・遼寧省瀋陽市)にあるチベット仏教のラマ寺院に保管されていた古文書を写し取った。

使用された文字は、契丹語の発音を漢字で表記したもので、日本の万葉仮名のようなものだった。

浜名寛祐は帰国してから長年の研究により、大正15年(1926年)に書籍を出版した。

当書籍に題名はないが、「契丹古伝」、「契丹秘伝」、「東族古伝」などと呼ばれ、神話20章、歴史20章、古頌6章の46章から成っている。

これは契丹だけの古史古伝ではなく、日本を含む東アジア(東夷族)についての史料である。

モンゴル高原東部の遊牧狩猟民族「キタイ」の族長・耶律阿保機(やりつあぼき、872年‐926年)が916年に「契丹国」を建国、太祖となった。

日本では60代醍醐天皇(885年‐930年)の頃である。

「契丹(きったん)」は中国式の国名で、「キタイ(Cathay)」、「キタイ帝国」とも云う。

「契丹国」が北方から華北に南下、華北を制圧すると、2代目太宗の耶律堯骨(やりつぎょうこつ、902年‐947年)が947年に「遼(りょう)」と改称した。

遊牧民族の遼(契丹)はモンゴル平原、満州、華北(中原)を支配した大帝国であった。

後に、遊牧民の「金(1115年‐1234年)」、「元(1271年‐1368年)」、「清(1636年‐1912年)」が中原を支配する最初の例となった。

「遼」は遊牧、農耕、手工業、外交、貿易で富を蓄え、強力な騎馬軍団があった。

遼の俊敏な騎馬兵が広大な国土を護り、「遼」が漢民族を含む多くの民族を有効に支配するために、それぞれの民族の社会システム・宗教などを認め共存体制を取った。

この多民族支配方法が、後にモンゴル帝国(1206年‐1635年)が世界を長期に征服・支配する一定の基準になったと考えられる。

「遼」が華北を捨て、北方の草原に戻ってからは983年に6代目聖宗の耶律文殊奴(やりつもんじゅど、982年‐1031年)が国名を「契丹」に戻し、全盛期をむかえた。

「契丹」は南部(華中)の北宋(960年‐1127年)とは戦争をしたが、1004年に和平条約を結び貿易を拡大し繁栄した。

「契丹」は1066年に8代目道宗の耶律査刺(やりつささつ、1032年‐1101年)が再び国名を「遼」に戻した。

9代目天祚帝の耶律阿果(やりつあか、1075年‐1128年)が、「北宋」と結託したツングース系女真族の「金」(1115年‐1234年)と戦い大敗・逃亡、1125年に「遼(契丹)」は滅亡した。

耶律阿保機の8世孫の耶律大石(やりつたいせき、1087年‐1143年)は、契丹人の騎兵を従え西トルキスタンに逃れ、イスラムのカラハン朝(テュルク系)を従属させ、「西遼」(カラ・キタイ、1132年‐1211年)を建国し、カガン(皇帝)となった。

1141年に広大な中央アジアを制圧した耶律大石は、契丹の故地奪還を狙って大軍で「金」に向かって進軍するが、途中で亡くなり軍は引き返した。

九州国立博物館の「草原の王朝 契丹(きったん)」をご覧ください。「契丹」と「カラハン」の位置が分かる地図もあります。

浜名寛祐が集めた古文書の作者には、「契丹」の分国である「東丹国」の役人・耶律羽之(やりつうし、890年‐941年)もいる。

耶律羽之は遼を建国した耶律阿保機に仕えていた。

45代聖武天皇の神亀4年(727年)から日本と渤海国は親密に交流を始めていた。渤海国(698‐926年)は日本海に面した沿海州にあり、契丹の南東に位置する。

渤海国の烏須勃(うすぼつ)が記した「耶摩駘記」に「その国(大和の国)は秋洲と云い、アキシマと読む。」とある。

烏須勃(うすぼつ)は、渤海国(ぼっかいこく)の国使として49代光仁天皇の宝亀4年(773年)に能登に着いたが、入国を拒否され追い返されたと続日本紀にある。

契丹国が渤海国を滅ぼして、東丹国を926年に建国するが、渤海大使であった裴璆(はいきゅう)が東丹国の使者として来日している。

契丹古伝には「殷(いん、BC1750‐BC1020年)」についての古史古伝も記されている。、

殷(商)と日本列島、琉球は同一民族であったと云う。

殷の最後の紂王(ちゅうおう)が朝鮮半島に箕子国(きしこく)を建てた。

殷朝末期に、「東族」の諸族が「殷」を助けるが、離反する部族(姜族など)も出て紀元前1020頃に「牧野(ぼくや)の決戦」で「殷の紂王」は「周の姫発(武王)」に敗れ滅亡した。

殷(いん)より前の時代に日本列島に住んでいた貊(わいはく)がおり、その後に日本に来たのが契丹族の祖・耶律で、倭人の国を先祖としていた。

私見ですが、縄文時代の日本と殷は交流もあり、混血もあったと考えられますが、「同一民族」ではないと思います。DNAを調べてもらわないと・・・

16,500年前から始まった縄文時代は、世界最古の文明だと云う学説が増えてきたが、縄文人が世界に拡散して文明を広めたようだ。

印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2025-08-30 10:24

京都府舞鶴市(まいづるし)森872   電0773-62-5462  車を境内に停める。

10代崇神天皇の御代(3世紀後半)、丹波道主命が祖神の天之御影命を祀った。


延喜式内社、正八幡宮。

通称は大森神社、大森さん。


祭神 天之御影命(あめのみかげのみこと)、

相殿 誉田別命(ほんだわけのみこと、15代応神天皇)。


祭神の天之御影命(西暦170年頃生)は天津彦根命の子で、西暦185年頃の饒速日(にぎはやひ)東遷に従って近畿地方にやってきた。

天之御影命は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同神または兄弟神とも云われ、鍛冶の祖神。

丹波道主命(丹波将軍)の母・息長水依比売(おきながみずよりひめ)の7代ほど前の先祖が天之御影命になっている。


   140年頃出生       155年頃出生  170年頃出生

大日霊女貴尊(天照大神)-天津彦根尊-天之御影命-意富伊我都命-彦伊賀都命-

250年頃出生               280年頃出生

天夷紗比止命-川枯彦命-坂戸彦命-国忍富命-息長水依比売命丹波道主命


天之御影命は滋賀県野洲市三上の御上神社に祀られ、三上山をご神体としている。

また、和歌山市秋月の日前・国懸新宮にも祀られている。

    

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入口近くの枯木堂(愛染明王)。

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赤い両部鳥居。 両部額には「正一位大森大明神」とある。

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参道

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八代神社(はったいじんじゃ、須佐之男命と天照大神の五男三女神)。

「八代荒神さん」と呼ばれ火の神、竈(かまど)の神。

天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野楠日命、

田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命の「荒魂」を祀る。

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鹿島・香取神社、

武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)。

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三安神社(みやすじんじゃ、天照大御神)。

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二の鳥居と拝殿。

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駆逐艦「菊月」の第4砲身。

菊月は舞鶴海軍工作部で1926年に竣工、1942年にソロモン諸島で沈没。

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蛇切岩伝説、

失恋した娘が大蛇に化けるが退治され岩に激突、頭・胴・尾の三つに切り裂かれ

尾の部分が当社に祀られた。

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須佐神社(須佐之男命、大己貴命)。

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水神社(罔象女神、みつはのめのかみ)。

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本殿、延享4年(1747年)に再建、一間社流れ造り、檜皮葺、京都府指定文化財。

霊水の上に鎮座。

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御霊水、長命を授かる。

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麒麟稲荷神社(宇迦之御魂神)。

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若宮稲荷神社(保食大神)。

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森光稲荷神社(大宮能売大神)。

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***

日本人は4万年以上日本列島に住みついているので、島国として他民族から隔離された環境で独自な身体的特徴が出来上がり、他にはない独自な言語(日本語)が出来上がった。

現代日本人は、古代縄文人のDNAも色濃く受け継いでおり、技術の高さ、民度の高さに繋がっている。

日本人のレベルの高さは先進国の中でも際立っており、世界中から認識されている。

2500年程前に揚子江(長江)周辺の江南人(倭人)が列島にやって来て弥生文化が始まったが、弥生の歴史は縄文に比べて短く、16,000年前から繰り広げられた縄文文化、縄文のDNAは現在も健在である。


印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2025-08-24 09:06